一輪目『現実の恋とは残酷なもの』

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 「っ……でも、伊佐田君っ」  「僕のことで二人が真剣に話し合ってくれているのは嬉しいけど、そろそろ時間じゃないかい? これからゆかりちゃんは社会心理学、千春さんはスポーツ栄養学の授業があるんじゃない?」  何故か二人の予定を網羅している伊佐田のもっともなセリフに、さすがの二人も引き下がるしかなかった。  ようやく我に返った二人は、思い人の前で見苦しい姿を見せてしまった負い目と羞恥で意気消沈する。  しかし、苛烈な罵倒合戦を目の当たりしてもなお、肝心の伊佐田が幻滅した素振りは一切ない。  むしろ紳士的な彼の美貌には、普段と変わらない笑顔が咲き、柳眉も優しい線を描いたままだ。  にこにこと屈託なくはにかみながら「また今度ね~」、と手を無邪気に振る伊佐田の態度に、二人の表情には安堵が灯った。  授業の予鈴が凛とした音色で中庭にまで響き渡ると、二人は足早に立ち去った。  二人の後ろ姿を見失うまでにこやかに手を振り続ける伊佐田。  苛立ちと呆れを包み隠さずに彼を鋭く睨み雅。  この二人だけが、春の静寂を取り戻した中庭に取り残された。  ここでようやく、雅の存在を認識した伊佐田こと智治は、人当たりのよい笑顔を保ったまま、気さくにあいさつをした。  「久しぶりだねえ、雅。文芸サークルでの引退飲み会以来だけど、元気にしていたかい?」  「久しぶり、だな。伊佐田智治……先輩」  「やーだな、どうしたの雅君。今更先輩だなんて、照れるねぇ。いいんだよ、そんなかしこまらなくたって。何故なら君と僕は、先輩後輩という壁を越えただし?」  人懐っこい猫のように甘い笑顔の智治は、後輩の雅の肩を心底親しみの込もった手付きで叩く。  なーにが、後輩だ! 確かに在学歴ではヤツの方が先輩だが、俺の方は実年齢も社会人経験も貴様よりは上だというのに。  馴れ馴れしい手付きに虫唾が走るのを堪えながら、雅は苦々しい表情で返事をするのが精一杯だ。  じろりと横眼で奴を睥睨すると、奴の両手首に巻かれた白いガーゼに目が入った。  また傷を作ったのか。  怪我の原因を何気なく訊いてみると、智治は屈託なく微笑みながら、「転んだんだよ」、と事もなげに答えた。  しかし、今度は転んだ原因を追及してみると、今度は照れくさそうな笑みが返ってきた。  「実はね、バイト先の病院で出逢った女性へ付きまとっていたを追い払った時に、ちょっとね」  「ストーカーにやられた傷なのか」  「ううん」  智治は無邪気に頭を振る。  本人曰く、業を煮やしたストーカーがナイフを片手に、バイトの女性に襲いかかってきた際、女性の前に出た智治はうっかり道石につまずいたのだとか。  ストーカー撃退事件の結末は、転倒した智治の巻き添えになったストーカーが気絶している間に、警察へ通報したのだとか。  「いやぁ、災難だったけど、女の子が無事だったから結果オーライだね」、と誇らしげに語る智治に、雅は溜息を吐いた。    この男は女好きのろくでなしだ。  反面、親切や善行を何気なく行い、小さな生傷の絶えない正義漢な一面もある。  果たして、良い奴なのかろくでなしなのか、相変わらず意味不明な奴だ。  智治という男は、こう見えても一応同じ文芸サークルの先輩であり、大学で最初に出逢った友人でもある。  四回生になったばかりの智治は、文芸サークル活動のリーダー権も三回生に譲り渡し、現在は卒業研究と就職活動(現バイト先に決まりそうだが)に専念し始めた、と聞いている。  しかし、俺は断じて認めないぞ。  あまりに節操のないこの男の本性を知る瞬間まで、奴のことを人のために身を粉にして善行を為す良い先輩・友人だと見誤っていた。  そんな愚かな己を今でも心底恥じている。  もしも、去年の新入生時代に帰ることが叶えば、生理心理学の授業を選択しようとする自分を、全身全霊で食い止めたい。  「いやぁ、君がちょうどいい所で来てくれて助かったよ。ま、君が来なかった場合でも、自分で何とかするつもりだったけどね」 ・
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