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7.無自覚なお色気
西園寺龍一は、佐紀が会場入りするよりも少し早い時間にマルコを呼び出していた。伴奏で気になるところがあるからと言ったら、龍一に対して警戒心を持っていたマルコも素直に従ったのだという。
そして、ランメルモールのルチアのダメ出しをしながら、弾いているマルコの後ろに回り、一気に首を締めたのだそうだ。自分のネクタイで。
「龍一は合気道を相当使うらしく、腕力にも自信があったようです。凶器のネクタイは楽屋の荷物の中から見つかっていますし、監察医の見立てとも遺体の状況は一致しています」
龍一が取り調べを受けている部屋をマジックミラー越しに見ることができる隣室で、逸彦は山手署の捜査員の説明を受けていた。
「しかし、捜一の警部補が二人も臨場していたなんて、凄い偶然ですね」
「臨場じゃなくて、単にお客様だったんだけどねぇ」
多岐絵の事情聴取も終わり、昼近くになって漸く二人は解放された。
「もう、逸ちゃんは加わらなくていいの? 」
「初めから、加わってないの。県境越えたらね、余計な口出ししちゃダメなんだよ。ま、複雑な事件でもなさそうだし」
「なのに、ずっと付き添ってくれたの? 」
「だって……」
署の入り口で木刀を手に仁王立ちになっている私服警官に敬礼を返し、逸彦は駐車場を出たところで両腕を突き上げて体を伸ばした。
「……多岐絵がさ、意地悪な刑事に詰められたりしないか心配だったから」
多岐絵は黙って、逸彦の腕に両腕を絡めたのだった。
多岐絵は急いで電車に飛び乗り、夕方からの合唱団の仕事に備えるべく帰っていった。逸彦も、一旦帰宅して着替えを済ませ、のんびりと登庁した。
3係を覗くと、鸞が机の上を整理しているところだった。
「主任」
逸彦が顔を覗かせていることに気づくと、鸞はすぐに花が咲いたような笑顔を向けた。両隣で事務仕事をしている刑事達が、ふんっと鼻を鳴らした。
「昨日は色々どうも有難う。兄上も一緒に、改めてお礼させてよ」
「そんな、お気になさらずに。前半だけでも荒巻先生の職人芸のような素晴らしいピアノが聞けて、久しぶりに楽しい時間を過ごせました」
「その言葉、多岐絵が喜ぶよ……異動? 」
「ええ、まぁ……警部に昇級する前の、いろんな部署での実地経験てことだと思うんですけど」
言いにくそうに、鸞が顔を伏せた。
「虎ノ門でのことが理由? 」
「いえ、断じてそうではありません……今度は神田署の交通課、です」
「所轄の交通課って……係長ポストで」
「はい……笑って交通安全のチラシを撒いていればそれでいいそうです」
猛烈に腹が立つのを我慢できず、逸彦は踵を返した。
「待って!! 」
猛烈な歩幅で歩きだした逸彦を、鸞が腕を掴んで止めた。
「離せ、一課長に掛け合ってやる! 」
「いいんです、僕はこのくらいじゃ腐ったりしません」
「桔梗原」
「幼い頃から、こういうことには慣れっこなんです、だから……」
湿り気のある目で二人を見る同僚から避けるように、鸞が逸彦を大部屋の外に連れ出し、自販機前のベンチに座らせた。
「俺は、そんな子供じみたやり口、気に入らないね。能力がある人間を飼い殺しにするようなら警察組織に未来はない。君も君だ。来月には同期の奴らと一斉昇級で警部だろ。嫌なら嫌と言えばいい」
「ですよね」
少しでも気を鎮めようと、逸彦は然程欲しいとは思えないコーヒーを自販機で2つ、買った。一つを鸞に手渡すと、少女のように甲高く「アツっ」と声を上げた。
「あれ、熱かったか、すまん」
「大丈夫です、頂きます」
あんな声を上げられたら、つい手を見て火傷をしていないか確かめたくなってしまう。放っておけないと言うか、痛い思いをさせたくないというか……守ってやりたくなる不思議な気持ちにさせるのは間違いない。だが、虎ノ門で見た通り、鸞は相当に強い。精神的にも、この男の芯はかなり強いだろう。
「現場に出たいなら、キャリアじゃない方が良かったんじゃないか? 」
「そうかもしれません。事務仕事なんて、欲求不満で悶えるばかりです」
「お前が言うとシャレにならんぞ」
と、逸彦は声を上げて笑った。コーヒーの飲み口を口に咥えたまま、鸞は上目遣いに拗ねたような顔を見せた。
「もう、主任てば笑い過ぎぃ」
目の端に猛烈な色気が灯るのだが、本人はおそらく無自覚だろう。
「それそれ。危ない連中に引っかかるなよ。そのうちお代官様に帯解かれてくるくるされて『あーれー』ってなっちゃうぞ」
「何それ、ウケますぅ」
ふと見せた濃厚な色気が抜けて、年相応の無邪気な表情で鸞が笑った。
そして足を組んで座る逸彦の隣にちょこんと行儀良く座った。
「深海主任のように、僕を理解してくださる方が一人でもいらっしゃる……そう思えるだけで、僕は頑張れます」
鸞が体を寄せて、逸彦の腕に寄りかかってきた。おいおい、と解こうとする前に、鸞はきゃっきゃとはしゃぎながら立ち上がった。
「いつか、僕を部下にしてくださいね」
指名を強請るキャバ嬢か……無自覚の色気を孕む声音に、ドキリと、逸彦の心臓が音を立てた。おいおい、俺には多岐絵という恋人が……しかも男だぞ、こいつは。千々に乱れながらも決して表情は崩さず、逸彦は口の端を必死に上げた。
「こっちが君の部下になりそうなんだが」
飲み終えた缶を逸彦から取り上げると、鸞はさっさとゴミ箱に捨てた。
「チラシ配り、頑張ります」
「お、おう。腐るなよ」
「腐りませんよ。ピチピチのままで主任の部下になりますから、いつか」
うふっ、とばかりにウインクをして、鸞は仕事部屋へと戻っていった。逸彦は思わず胸元を抑えて上体を折り曲げた。
「なんつー色気だ、おい」
あんなだったか? と、鸞の底知れなさを垣間見てたじろぐ逸彦であった。
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