43人が本棚に入れています
本棚に追加
2.蝶か鷺か
鸞は麻布の狸穴町に住んでいるとかで、土地勘があり、虎ノ門の件のビルの絶妙な場所に車を横づけた。
覆面車の中での無線のやり取りによって、大凡の現場の状況は掴んでいた。
虎ノ門の企業ビル。一階にはコンビニとコーヒーショップ、数件のレストランが入っている。入り口は、メインが犯人が暴れている南のエントランスで、北側にも小ぶりの入り口がある。
鸞は車を北口につけ、腰の警棒を確かめながら運転席から降りた。規制線が既に貼られているが、入り口に立っているのは制服警官が僅かに二人だけであった。逸彦もインカムを二人分手にして辺りを睥睨しながら車を降りた。
「捜一3係桔梗原、殺人犯7係深海主任です」
「愛宕署の佐藤です。ウチの捜査課も組対も、新橋の発砲事件に出払ってしまって……当直の生活安全課の二人と警らが3人、南口を張っています」
「指揮しているのは? 」
「生安の米原主任です」
逸彦は、白髪混じりの好々爺の顔を思い浮かべ、納得したように頷いた。薬物事案ならば、生安が出張っていてもおかしくはないが、ケレンはやはりこちらに任せてもらう方がいいだろうと判断し、制服警官から無線を借りた。
「米原さん、1課の深海です、その節はどうも。で、犯人の様子は」
「おう、深海か。……南のエントランス横のコーヒーショップの店員を人質にしてる。ひどく興奮していて、手がつけられん、もう禁断症状出とるな」
「時間かけて要られませんね。救急隊は」
「もう到着しとるぞ」
「了解。今から揺さぶりかけて一気に攻めます」
横で耳をそばだてていた鸞は頷くなり、遠巻きに見ている野次馬の一人に近づいていった。逸彦が呼び止める前に、鸞はそのサラリーマンにニッコリと微笑みかけて、まんまとビジネス用リュックを借り受けて背負って戻ってきた。
「まるで学生だな」
細身の彼が黒く四角いリュックを背負っていると、就活中の学生にも見えてしまう。むしろ、それが狙いのようでもあった。鸞は警棒を装具ごと外し、逸彦に預けた。インカムと共に警棒を押し返そうとしても鸞はそれを拒んだ。
「警察だとバレたら、興奮させるだけです。話が通じないでしょ、奴は今」
「だからと言って無腰はダメだ。拳銃も携帯していないだろ」
「大丈夫です、主任。援護をお願いします」
逸彦の承諾もなく、鸞はズカズカと戸惑うこともなく中へと入っていった。
「おいおい、結構なお転婆さんか? 」
逸彦は、南口の警官と無線でやり取りをし、北から二人が中に入る事を伝え、鸞の後詰をするべくベレッタ92FSを抜いて中へと入った。
ビルの一階はだだっ広いホールになっていて、真ん中にガラス張りのエレベーターが4基。広場を囲むようにコンビニ、全国チェーンのレストラン、そしてコーヒーショップがテナントとして入っている。南口から入ると、中央のエレベーターホールの前に受付のカウンターがあり、ここを通らないとエレベーターには乗れない構造になっている。
南側から見て西の壁際に逸彦が、東のコーヒーショップとコンビニの並びに鸞が、それぞれ身を潜めて潜り込んだ。
南口の警官たちが、今一度入り口を厳重に封鎖し、犯人に声をかけ続けていた。逸彦から、犯人が見えた。完全に犯人から死角になるレストランの大きな看板の陰に身を潜め、ベレッタを構えた。
鸞が、今、コンビニから出てきた体でのんびりと犯人の前に躍り出た。
「ウワァッ! 」
わざとらしい演技で驚きながら、まずは倒れている受付嬢の側に座る。あくまで腰を抜かした体で。死角に隠れている逸彦に向かい、リュックの肩紐を治すふりをしながら親指を上に立てた。まだ息がある、ということだ。
「てめぇ、てめぇ、ナニモンだ!! オラァ、ここの会長呼んでこいヨォ」
「そんなぁ、知りませんよぉ」
ビクビクしながら、両手を丸めて口元に当て、ウルウルと目を潤ませる鸞に、犯人が小首を傾げた。
「何だ、おまえ女か」
「バスケやってたので大きいんですけど……はい」
逸彦は思わずベレッタを取り落としそうになった。まぁ、顔を見たら普通、女と思っても可笑しくないご面相ではあるが……。
「ノリすぎだろ」
思わず小声で呟いてしまった。
犯人は上半身裸で、下は汚れたスウェットのみ。それも失禁しているのか、派手に濡れていて悪臭を放っている。左腕でしっかり抱きかかえている小柄な女性は、コーヒーショップの店員で、店のロゴ入りのエプロンをつけていた。
「あのぅ、何で、ここの会長に会いたいんです?」
鸞が指を口に添えたまま、可愛さ満載の仕草で犯人に尋ねた。
すると、犯人は口から泡を飛ばして喚き散らした。
「タバコが高いんだヨォ!! クッソ! 俺はタバコが吸いたいんだよ! 」
唾を嫌がる人質の女性が思わず顔を背けて腕の中からすり抜けるように蹲み込んだ。夢中でタバコをよこせと喚く犯人はそのことに気付いていない。
「タ、タバコ、オーバーウーツで持ってきてもらいましょうよ」
電話に犯人の目を釘付けにしたまま、鸞は滑るように間合いを詰め、女性をそのまま警官のいる方に突き飛ばした。
意表を突かれたことに怒る犯人が、包丁を滅茶苦茶に振り回す。鸞は棒立ちのまま、無表情にその様子を見ている、かのように思われた。
「どうした、ビビったか……」
逸彦はベレッタの安全装置を外していた。と、鸞の踵が軽く浮いているのを見た途端、逸彦はベレッタを下ろし、もたもたしている人質に走り寄って出口から押し出し、安全を確保した。
入り口を背に膝立ちになって再びベレッタを構える逸彦の前で、鸞は無軌道な包丁の斬撃を僅かな体重移動で躱していた。ふと横目で人質が外に出たことを確かめるや否や、身を屈めて犯人の懐に滑り込み鮮やかに払い腰で床に叩きつけ、俯せに返して両腕を背中で捻り上げた。寸暇の遅滞もない、まるで蝶の精もかくやとばかりの鮮やかさであった。ものの3秒あまりの出来事だが、まるで映画のスローモーションのように美しかった。
勿論、鸞は息一つ乱しておらず、涼しい顔で犯人の背中に膝を入れていた。
逸彦は慌てて駆け寄り、包丁を制服警官の方に蹴り飛ばした。
「犯人確保!! 救急隊!! 」
逸彦の号令で、既に救急隊員が駆け込んできた。見る限り、警備員の方は出血が多く、かなりの重傷だ。
取り押さえられた犯人は目の焦点も合わず、支離滅裂なことを喚き散らしながら連行されていった。
「桔梗原君、鮮やかだったね」
「いえ、主任が後詰で居てくださったから、心強かったです」
またまたぁ、と鸞の肩を叩くと、可憐な美貌を綻ばせた。庁内で見たときよりも、余程さっぱりとした笑顔で、やっぱり男の子だねぇなどと妙な納得をしてしまう逸彦であった。
「飯でも食うか? ご褒美に奢るぞ、ラーメンだけど」
「ホントですかぁ? うわぁ、嬉しい! 」
キャピッと、両手を口の前で合わせて小首を傾げて微笑む鸞は、やっぱりどこから見てもお姫様であった。
「にんにくマシマシ餃子半チャーハン付きの味噌ラーメン大盛りが良いです」
「え……」
訂正。きっとこれまで遠慮をしたことのない、大食いのお姫様、であった。
最初のコメントを投稿しよう!