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4.コンサート
久し振りに定時で上がり、というか超音速で書類仕事を仕上げ、管理官からの呼び止める声を聞こえないふりをして振り切り、エレベーターが一階で開いた途端に猛ダッシュで誰にも声をかけられないように本庁から脱出し、逸彦は日比谷線の中目黒で乗り換え、東横線直通みなとみらい線に乗った。
今日は、元町の港の見える丘公園近くにある山手ゲーテ座で、荒巻多岐絵の友人のコンサートを聞くことになっていた。
正直、コンサートはどうでも良い。久し振りにゆっくりと、公園そばのホテルを取って食事を堪能し、ベイブリッジを見ながら二人きりで過ごすのが最終ミッションなのだ。この日の為に、事件という事件を千切っては投げ千切っては投げ、部下から回されてくる誤字脱字だらけの書類を超音速で纏め上げ、死ぬ思いで電車に飛び乗ったのだ。
多岐絵は既に会場入りし、リハーサルから付き添っているのだという。何だかよく分からんが、ホールでのバランスを聞いて欲しいと頼まれているのだそうだ。
今日の主役は、多岐絵が学生時代によく伴奏をしたというソプラノ歌手で、フランス人とのハーフの超美人なのだという。ならば何故多岐絵が伴奏しないのかと問うと、伴奏は婚約者が勤めるのだという。成る程、婚約発表でも兼ねているのか……そう想像して、逸彦はドキリとした。多岐絵はやはり、結婚を意識し始めているのだろうか、と。
腕を頼りに八面六臂の活躍をする多岐絵だが、最近は疲れが顔に出ていることも多い。それはそうだ。フリーのピアニストが食べられるだけの稼ぎを手にするのは並大抵ではない。掛け持ちに掛け持ちを重ねるようにして、朝から晩まで働いているのだ。
少しギアを落として、本当に引き受けたい仕事だけに厳選したらどうか、俺の奥さんになって……そんな言葉を何度心の中で繰り返したかしれない。多岐絵はもう34。どう考えているのか、そろそろ本腰を入れて話す必要がある。
いや、自分が結婚というものをどう捉えているのか、まだ分かっていないのだ。家事をして欲しいのか? いや、多岐絵からピアノを取り上げることはしたくない。では子供は? できれば欲しい。疲れて帰って、人がいる生活が毎日続くことは……正直、多岐絵と3日以上過ごしたことがないから分からない。それどころか、一人が長すぎて、人と暮らすということがどういうことなのか、本当の大変さなど知る由もない。
気付けば、元町の駅からゲーテ座までの長い上り坂の途中で、足が止まってしまっていた。4月下旬の割に暖かかった日中が嘘のように、冷たい風が逸彦の髪を撫でていく。
事件だと、もっとサクサク頭が動くというのに……逸彦はくしゃくしゃ、と髪を手で掻いた。
左手に港の見える丘公園が見えてきた。坂の頂上に丁字路があり、その左側が公園へのメインの入り口になっている。その手前に小さな階段があって、緑に溶け込むような瀟洒なホテルに通じている。そこが今日の二人の憩いの場所になるのだ。そして丁字路を右に、外人墓地の方に折れると間も無く、ゲーテ座が見えた。この辺りの洋風な街並みによく合う煉瓦造りの建物だ。
気合いを入れすぎて、まだ開場には早い。一応多岐絵に電話をしてみると、切羽詰まった声が返ってくるなり、楽屋口から入ってこいとの指令が下った。
キョロキョロと建物を見回しながら漸く楽屋口なるものを見つけると、多岐絵が飛び出してきて逸彦の腕を引いた。
「大変なの、ちょっと来て」
何だ何だ、こっちの頭の中も結構大変なんだぞ、と心の中で言いながら、それとは別に、ドレスアップした多岐絵の都会的な美しさに見惚れたりもした。
「何ぼーっとしてんのよ」
「いや、ワンピースもよく似合うなぁって……」
「何言ってんの、ほら早く」
多岐絵に腕を引かれるまま連れて行かれたのは、100席程の小ぶりなホールであった。客席とステージはフラットな1フロアで、ホールというより、サロンという雰囲気だ。
客席の其処此処には関係者の荷物が散乱し、多岐絵がいつも持ち歩いている譜面用のトートバックも置かれていた。
「だから、お兄様のピアノじゃ歌えないのよ」
まだ普段着のワンピース姿の女が、ステージ上で涙を流して喚いていた。グランドピアノの前には、背の高い男が座っており、宥めるような笑顔で女を見つめている。
「佐紀よ」
多岐絵が俺の耳元で囁いた。
「婚約者と揉めてる……って思ったけど、お兄様って言った? 」
「そうなの。リハになって婚約者のマルコが行方不明で、いきなり龍一さんが弾きだしたのよ。そしたら佐紀が半狂乱になって……私に弾けって」
「はぁ? 」
多岐絵は困り果てたように眉をひそめた。
「多岐絵、今日のプログラム、何曲か変えてもいいから、お願い」
多岐絵と話す逸彦の存在はまるで目に入らないかのように、佐紀が舞台上から、苛立った声で催促をしてきた。
「そんなぁ……」
「ドレスも予備を持ってきているから、使って。多岐絵なら安心して歌える」
「だって……」
と、多岐絵が龍一の方を見ると、観念したように龍一が立ち上がった。
「お前のコンディションも音楽性も、私なら全て分かっているというのに……ランメルモールのルチアなど、私でなくては無理だろう。マルコなどとても、お前を活かせてなどいない」
「だから、余計なお世話よ!! 」
佐紀が金切り声をあげた。思わず多岐絵が逸彦から手を離し、佐紀に駆け寄って背を撫でた。
「そんな声、本番前に出しちゃダメよ。ランメルモールはぶっつけじゃ無理だわ。あなたの得意なルサルカか、カーロ・ノーメに差し替えられる? 」
ルサ……ん? 曲名なのだろうが、専門用語の会話はさっぱり見当がつかない。そしてそんな会話を然も当たり前のように交わせる多岐絵が、逸彦には何やら誇らしかった。
「今日はリゴレットの気分じゃないわ……日本歌曲でもいい? 」
「いいわよ。早速音出ししながら選ぼう。譜面、ある? 」
多岐絵の眼中にも、最早逸彦の存在は映っていなかった。
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