5.狂気のステージ

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5.狂気のステージ

 すっかり置いてけぼりな気分で、逸彦はロビーをうろうろとしていた。多岐絵と並んで座って聞きたかったのに、予定が狂ってしまった。 「あれ、深海主任? 」  逸彦は動きを止めた。ここで知り合いに会うのは御免被りたかったのに、何が悲しくて……誰だ、同業か、ご近所か、と肩越しに声がした方を睨み付けると、あの可憐な深窓のお姫様が満面の笑みで立っていたのであった。拍子抜けしたように、逸彦は向き直り、よう、と軽く手を挙げた。すると、その人物の後ろにスカイツリーもかくやとばかりの長身の男が立っており、実にスマートに会釈をした。逸彦も、ぎこちなく会釈を返した。 「桔梗原くん、何で」 「佐紀先生に、高校時代、歌を見ていただいたことがあるんです」 「え、声楽もやっていたの? 」 「いえいえ、受験の実技科目の中に新曲視唱というのがあって、それで……結局音大は受けませんでしたけど。あ、兄上、捜査一課でとてもお世話になっている深海主任。ほら、虎ノ門の時、助けて頂いた……主任、兄です」  と、キラキラした瞳で、桔梗原鸞が後ろのスカイツリーを紹介した。成る程、これが久紀が言っていた『良い男』かと、すぐに納得をした。しかし『兄上』とは。深窓の……とは思っていたが、一体どんな家柄だ、時代劇か、とめくるめく言葉の泉を鎮めるように涼しい顔を装い、逸彦は少し口元を緩めた。 「弟が大変お世話になっております。兄の桔梗原孔明(ひろあき)です」 「あ、深海逸彦です。確か、久紀の後輩だとか」 「霧生先輩をご存知でしたか」 「ご存知も何も、クソがつく腐れ縁でね」  孔明と名乗ったスカイツリーは、実に端正な顔立ちを品良く綻ばせた。三白眼の眼光はあくまで大人しいが、油断ならない深みがある。体つきとて、ただ大きいのではなく、軽さと敏捷さを十分に感じさせる。自衛隊にでもいたのかと思うほどに、体に弛緩がない。鸞もそうだ、ほんわかしていながら、体の奥にいつでも臨戦態勢に入れるかのような鋭敏さを隠している……つい、捜査一課の習い性でそこまで僅か数秒で分析しつつ、逸彦は2人のまとう甘やかな雰囲気に、些か押され気味になっていた。  全く何て兄弟だ。しかも、鸞が来ているベビーブルーの綿ジャケットと、孔明が来ているインディゴの綿ジャケットは色違いのお揃いではないか! ボトルネックの白いシャツなんて着ているから、鸞の小さい顔も細長い首も殊更強調されて、ペアルックを着たカップルにしか見えない。しかも、孔明が鸞を見下ろす目はあくまで優しく、鸞が孔明を見る目は熱を孕んでいる。こんなに婀娜っぽい子だったかと、逸彦が思わず瞬きしてしまうほどだ。 「二人は仲が良いんですね」 「え、いえ……やだな、主任たら」 「はい? 」  逸彦の何の変哲も無い筈の言葉に、鸞が真っ赤な顔をして俯いた。予想外の可愛い反応に、逸彦の方が面食らってしまった。  孔明がその空気を一刀両断するかのように、では、と言った。 「霧生先輩に、どうぞよろしくお伝えください」 「主任、また後ほど」  実に折り目正しく、二人が頭を下げた。鸞がすかさず孔明の腕に両腕を絡めるようにして客席へと誘って行った。おいおい、マジか。  逸彦には兄弟がいないから、どういうものなのかはわからない。ただ、大人になると、それもどちらかが結婚でもしてしまうと疎遠になりやすい、そんな話を聞くことの方が多い気がしていたのだが……。 「やめた」  考えるのはもう疲れた。今日は回転を止めて、多岐絵の音楽に没頭しよう。  豪華なドレスに身を包み、まさに歌姫然として登場した西園寺(さいおんじ)佐紀(さき)は、確かに美しかった。しかし、数呼間遅れて登場した多岐絵は、もっと美しかった。ショートヘアにドレスというのも、これまたそそる。ただ、肩ひもが気になるのか、しきりに直している。確かそれが嫌で、普段自分がドレスを選ぶときは、肩ひもタイプは絶対に選ばないと言っていた。  気になってミスしたりしないだろうかと心配していると……まるで何百回も弾いたかのような堂々たる佇まいで、多岐絵が『初恋』の前奏を弾きだした。  凛と会場に響き渡る、優しくも芯のある響。和音の羅列はあくまで整然と、厚化粧ではなく、淡白にならず、絶妙な色加減での音の真珠。  ああ、あのピアニスト、俺の彼女です!!  逸彦は、立ち上がって叫び出したいほどに、誇らしい気分で多岐絵の音に心を委ねていた。あの演奏をやはり失ってはならない。世界の損失だ。クラシックなど、エリーゼのためにくらいしかわからないが、多岐絵のピアノが素晴らしいことだけは分かる、間違いない! と。  正直、佐紀の歌は逸彦の意識の外であった。逸彦の耳は、ひたすら多岐絵の音を追いかけ、没頭し、目は多岐絵の姿を絶えず捉えていた。  やっぱり、俺は多岐絵に溺れている……泣き出したい程の感動に打ち震えながら、逸彦は次なる曲を待った。  一度二人は袖に下がった。次はオペラのアリアが何曲か続く。先ほどはアナウンスで日本歌曲のプログラム差し替えについて解説があったが、今回はどうもなさそうだ。例の、ランメルモールのルチアの狂乱の場、とかいう曲は、確か多岐絵が難色を示していた筈だ。訂正しないのだろうか。  こんなことを細かく考えるあたり、結婚には向いていない、根っからの捜査畑の男なのかなぁなどと自嘲していると、ドレスを変えた佐紀が登場した。オペラは彼女の真骨頂なのだろう、先程よりも堂々としている。  しかし、中々多岐絵が出てこない。トイレか?  舞台の照明が落ち、佐紀にだけスポットが当たる。ああ、演出なのだと納得しているうちに、まずは『オンブラ・マイ・フ』という曲の、佐紀のレチタティーヴォが始まった。スッと、ピアノが歌に滑り込むかのような和音を柔らかく響かせる。と、舞台が明るくなり、佐紀が前奏を引き出すピアニストを振り向いた瞬間だった。 「お兄様……」  逸彦も固まっていた。多岐絵は、多岐絵はどうしたのだ。 「いいから、歌いなさい、佐紀」  客席のどよめきも全く歯牙にも掛けない様子で、佐紀の兄の龍一はピアノを弾き続けた。 「嘘よ……多岐絵は、多岐絵はどうしたの!! 」  袖に向かって佐紀が多岐絵を呼ぶ。  逸彦はもう立ち上がっていた。  頭に入れてあった案内図を頼りに舞台袖へと急いだ。そこにはスタッフが数人、おろおろとしているばかりであった。 「荒巻多岐絵は」 「それが、衣装替えで楽屋に戻られたまま……現れたのは龍一さんで、そういう段取りなのかとばっかり」 「案内して」  と暗がりの中を駆け出そうとした途端、逸彦は出口を間違えて長机の端に接触してしまった。ガタンと音を立てて、机が倒れた。クソッと毒づきながらそれを起こした時、その下に大きな黒い包みがあるのを見つけた。近付いてみると、暗幕か黒い布のようなもので、大きな塊が覆い隠されている。刑事の本能で、逸彦はその下に何が隠れているか、直感的に悟った。一瞬、最悪の事態を想像もしたが、この大きさは断じて多岐絵ではないと、逸彦は自らを落ち着かせた。 「この包みは」 「え、何それ……」  長机の下に隠されていて、こんな暗がりの舞台袖では気付かなくても仕方あるまいと、逸彦はその黒い覆いを取り去った。  明らかに日本人ではない白人男性が、舌をだらりと出したまま苦しそうな形相で絶命していた。  まだピアノが鳴り続けている舞台へと、逸彦は駆け出ていった。ど真ん中に仁王立ちになると警察手帳を広げて客席中に提示した。 「すみません、私は警視庁捜査一課深海逸彦と申します。ちょっと事件が出来(しゅったい)しましたので、申し訳ありませんが、皆さんそのまま座席から動かずにいてください」 「同じく捜査一課、桔梗原です。この会場は一旦封鎖いたします。直に捜査員が身元をお伺いしますので、それまで動かないでください」  すると鸞も手帳を広げて客席で立ち上がり、素早く会場の外に出た。おそらく建物自体の入り口を封鎖してくれるつもりだろう。流石に反応が早い。  やがて駆け戻ってきた鸞は、客席に入るなり客席の扉も内側から閉めた。 「神奈川県警には連絡をしました。建物は既に封鎖してあります」 「よし、ちょっとここを頼むぞ」  逸彦は身を翻し、楽屋へと駆け出した。  
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