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6. 兄弟、ときどき恋人
多岐絵……!!
舞台袖を出ると、楽屋はだだっ広い部屋が一つ用意されているだけであった。中に駆け込むと、すぐに部屋の真ん中にドレス姿のまま横たわる多岐絵が目に入った。
「多岐絵、多岐絵!! 」
慌てて抱き上げ、頰を叩くと、多岐絵はううっと唸りを上げた。ゆっくりと目が開かれるのをじっと待っていた逸彦は、焦点が合った多岐絵の目が自分を捉えるのを確かめ、思い切り抱きしめた。
「逸ちゃん……」
「良かった、良かった……怪我は」
「ねぇ……龍一さん、弾いてるの」
いつの間にか涙で濡れていた逸彦の両目を、多岐絵が優しく拭った。いつもの笑顔で、仕方ないなぁとばかりに、逸彦の額に自分の額を押し付けた。
「私は大丈夫よ、逸ちゃん」
掠れる声で気丈に言うと、多岐絵は両手で逸彦の頰を包み込んだ。
「佐紀、歌っていないね。モニターから何も聞こえない」
「もう一人刑事がいて、彼が客席も舞台の二人も押さえている。コンサートはもう、終わりだ」
「何か、あったのね」
「遺体が、出た……」
「まさか、マルコ……そんな」
自分も被害者なのに、多岐絵はもう佐紀を案じていた。
「多岐絵こそ、怪我は、痛いところは」
「私は大丈夫よ。当身は食らったけど、何ともないわ。ほら、舞台に戻る」
やはり、少しは混乱しているのだろうか……多岐絵は逸彦の腕から立ち上がるなり、カツカツとヒールの踵の音を響かせて、さっさと舞台に向かっていった。恐るべし、プロ根性である。
「佐紀! 」
多岐絵が舞台に戻ると、佐紀が舞台の上で蹲っていた。龍一が側にいて背中をさすっているが、多岐絵の姿を見た途端、顔色を変えて立ち上がった。
「龍一さん、やり方が酷すぎるわ」
「君のような下々のピアニストに、高貴な妹の伴奏など務まるものか」
「で、私を気絶させて、マルコも殺したのね」
佐紀が絶叫をした。しかし、マルコの死を知ったからだけではない。
「お兄様……」
龍一が内ポケットから折りたたみナイフを取り出すなり、佐紀の首筋に刃先を当てたのだ。しかし、後ろから佐紀を抱きしめるように左腕を回す龍一に、暴れもがいて逃走を図るかのような見苦しさはない。むしろ、腕の中の佐紀の質感にうっとりと酔いしれ、今にも心中を試みそうな、そんな儚さがある。
鸞がドアの内側で気色ばむのがわかった。
「桔梗原、観客をロビーに誘導を」
「承知しました。皆さん、落ち着いてロビーに出てください、ゆっくり」
鸞と、鸞を手伝うべく孔明が立ち上がり、二つの後方のドアをそれぞれ開けた。鸞などは、パニックを起こさないように例のプリンセス・スマイルを振りまきながら、年寄りには手を添え、丁寧に誘導を開始していた。
「西園寺さん、佐紀さんを離せ。何故そこまで佐紀さんに固執する、妹だろ?
マルコがそんなに憎かった? 」
応援が着くまでは、決して興奮させるわけにはいかない。逸彦は手で多岐絵に舞台から離れるように合図をした。流石に多岐絵は逆らわずに、舞台の袖の方へと後退った。
「ナイフを。宝物を自分で傷つけちゃダメだ」
「宝物……そうだ、佐紀は私の宝物。それなのに、マルコに穢された」
「バカなこと言わないで! 」
佐紀が苛立ちまぎれに暴れた。まずい、そう思った途端、佐紀がハイヒールの踵で龍一の足を踏みつけた。
「うぐっ! 」
佐紀を抱きしめる龍一の手の力が緩んだ隙に、逸彦は佐紀の手を掴んで引き寄せ、追い縋る龍一の露わになった胸元に強烈な蹴りを見舞った。後方に吹き飛んだ龍一は、ナイフを首筋に突き立てようとしたが、逸彦は跳躍してその顔めがけて飛び蹴りを容赦なく食らわせた。ナイフが回転しながら宙に舞い上がる。落ちてきて床板の上で跳ね上がるそれを、逸彦が足で踏みつけた。
「一緒に、一緒に死んでくれ、佐紀……私の子を堕ろしたのだろう」
蹲る佐紀が、駆け寄って抱きしめる多岐絵の腕の中で驚いたような顔をした。多岐絵も、龍一と佐紀を代わる代わるに見て息を呑んだ。
「何言ってるの……」
逸彦に両手を背中に捻り上げられ、俯せに動きを封じられたまま、龍一が嗚咽を漏らした。
「マルコが……佐紀が子供を堕ろしたと。私の子なのだろう、あの男に穢されて、あの男に無理やり堕ろすように言われたのだろう」
「バカ言わないでよ! 自分の妹を貶めて、どこまで勝手なの! 」
多岐絵が金切り声をあげた。しかし、佐紀は俯いたままである。
「多岐絵……子供を堕ろしたのは、本当よ」
「佐紀」
「でも兄との子だなんて妄想も甚だしいわ……マルコの子よ。歌い手としてこれからって時に、子供なんて産んでいられないわ。多岐絵ならわかるでしょう、今のように仕事が軌道に乗るまで、どれ程苦渋を舐めたか知れないのよ」
答えられずに口ごもる多岐絵の背後から、龍一が尚も食い下がった。
「佐紀……本当に私の子では」
「お兄様と私との間に何があったというの。気色悪い妄想はもう沢山よ」
「気色悪い……」
やがて、管轄署の捜査課の面々が駆けつけ、佐紀に強烈な拒絶を食らって消沈する龍一を逸彦から受け取り、緊急逮捕した。
佐紀もそのまま事情聴取の為に同行を求められ、ドレスのまま舞台から下がっていった。残された多岐絵は、ぼんやりとピアノを見つめていた。
一応、スタッフから客の一人一人に到るまで名前と連絡先を聴取し、解放されたのは夜の9時を回った頃だ。それでも、かなりスピーディにこなしてくれた方である。
とはいえ、多岐絵が佐紀の友人で、龍一から暴行を受けた当事者でもあるため、どちらにしても自宅に帰ることはできなかった。
大事をとって近くの医者で診察を受け、打身以外の損傷がないことがわかり、安堵した上で海の見える丘公園のホテルに入った。
流石にレストランはラストオーダーが終わってしまっていた。参ったなぁと立ち尽くしていると、随分と前に解放されていた桔梗原兄弟が、丁度奥のテーブルで席を立ったところであった。
「主任、荒巻先生、おケガは如何でしたか」
多岐絵の姿を見るなり、鸞が心配そうに駆け寄ってきた。鸞と面識はないはずの多岐絵だが、佐紀から名前は聞いたことがあったのか、少し肩の力が抜けたような解れた笑顔を見せていた。
「大丈夫よ、有難う」
「あ、申し遅れました。僕、高校の頃に佐紀先生に教わっていました、桔梗原鸞です」
「鸞くん、佐紀から聞いてたよ。君のモーツァルト、聞きたかったな」
「僕なんて……今日の日本歌曲、素晴らしかったです。佐紀先生から、リハで曲決めしてぶっつけ本番だったって聞いて、仰け反っちゃいました」
「よく言うわヨォ」
おばちゃんか……だが、鸞の言葉は、多岐絵の心を大分解してくれたことは間違いがない。
「桔梗原くん、今日は色々と巻き込んでしまって悪かったね。いや、君がいてくれて、本当に助かったよ。どうも有難う」
「よしてください、主任。大した事はしていません」
あれ、スカイツリーがいない、と逸彦が辺りをキョロキョロしていると、レストランの奥から孔明が駆け寄ってきた。
「カレーライスや乾きものでしたらまだ提供できるそうです。お疲れでしょう、さぁ」
何と、逸彦たちの空腹を見越して、孔明はレストラン側と交渉をしてくれていたのであった。
「マジ……いや、途方に暮れていたんで、とても助かります。桔梗原くん、孔明くん、本当に有難う」
「どうも有難うございます」
逸彦と多岐絵は、素直に心から礼を言って頭を下げた。
「大袈裟ですって……さ、召し上がったら、少しでも早くお休みください、主任、荒巻先生」
鸞に先生と呼ばれ、多岐絵はくすぐったそうに笑いながら、何故か逸彦の腕を叩いた。
桔梗原兄弟と別れた後、レストラン側の計らいで、美味な高級ビーフカレーとサラダにありつくことができた。しかも、飲み物ならまだ11時まで出せると言うことで、多岐絵と逸彦は、漸く一息つくことができた。
「今度、ちゃんとお礼しないといけないわね、あの兄弟に」
「そうだなぁ……多岐絵は、兄貴の方は知ってるの? 」
「知らないわよ。ただ、佐紀からは、血の繋がらない兄弟だって聞いてる。孔明くんって、凄く鸞くんを大事にしていて、送り迎えも必ず来ていたんだって。鸞くん、小さい頃は体が凄く弱かったらしいから、忙しい両親に変わって、孔明くんが全部面倒見ていたんじゃない? 」
「ふうん」
「……妖しいよね、何となく」
まぁ、と逸彦は曖昧に流したつもりであった。その辺りは、複雑すぎて今は足を踏み入れたくないのだ。逸彦としては、もっと二人だけの濃密な会話を交わす予定だったのだ。
「でも、まだ兄弟、だね」
「はい? 」
多岐絵は掘り下げる気満々であった。
「一線は超えてないよ、まだ」
「越えたらまずいだろうよ、フツー」
「そうじゃない兄弟、いるじゃん、すぐ近くに」
久紀と光樹か……逸彦は、店へのお礼も込めて注文した高めの赤ワインを流し込んだ。頭がぼうっと熱を持つ。
「佐紀と龍一さんも、母親が違うのよ。佐紀のお母さんはお父さんの後妻さんで、龍一さんのお母さんは先妻さん」
「ん? じゃ、あそこも半分血が繋がっていないんだ」
「兄弟って、難しいのかしらね。龍一さんの過保護ぶりは学生時代から有名でさ。佐紀は逃れるように彼氏をとっかえひっかえした時期もあって……マルコのことは本気だったのよ。マルコはそんな境遇も分かった上で、佐紀を愛してくれたみたいだし」
グラスを持つ多岐絵の指が、ピクリと震えた。逸彦はその指ごと、多岐絵の手をそっと包んだ。
「明日、山手警察署で洗いざらい聞かれると思う。俺も一緒に行くけど……今はさ、二人の話、しようよ」
テーブルの上に、部屋のキーが置かれている。そのキーを、多岐絵がそっと指でなぞった。
「そうね……本当なら、ここで夜景を見ながらゆっくり過ごしている筈だったんだもの……ごめんなさい。私が仕事仕事で夢中になって、貴方が作ってくれた貴重な時間を台無しにしちゃった」
「時間は、まだある」
二人はグラスの中のワインを飲み干し、立ち上がった。
部屋からは、横浜ベイブリッジを真ん中に、宝石箱のような美しい夜景を見ることができた。
ベッドに腰をかける逸彦の腕の中には、まだ濡れ髪の多岐絵がバスタオルを巻いただけのしどけない姿で収まっていた。
「なぁ、多岐絵……あのさ」
「うん」
「今日、凄く多岐絵が誇らしかったんだ。今弾いてるのは俺の彼女だって、大声で喚きそうになった」
「何それぇ」
「……考えたら、ダメかな」
多岐絵が、ぎゅっと逸彦の腕にしがみついた。
「刑事の俺が嫌なら、他の部署に移動してもいい」
すると水滴を落としながら、多岐絵が首を振った。
「私はいつも、刑事として頑張ってる逸っちゃんが好き。格好いいし、私の方こそ、今現場を仕切っているのは私の彼氏です! って大声で言いたかった」
「本当に? 」
「本当に。本庁の抱かれたい男第二位は、私の彼氏だぞーって」
「じゃぁ、抱いちゃうぞぉ」
「じゃぁ、抱かれちゃうぞぉ」
バカップルのような会話を楽しみながら、二人はやがて唇を重ねた。
「髪、乾かさないと風邪ひくよ」
逸彦は、洗面所からドライヤーを持ってくると、ベッドの上で多岐絵の髪を乾かし始めた。
一緒に暮らしたら、こんな風に、日常の当たり前を過ごす時間が増えるのだなぁと思ったら、無性に愛しくて、逸彦は多岐絵の髪に顔を埋めた。
「逸ちゃん」
「俺……多岐絵と一緒にいたい。ずっと、ずっと、当たり前を二人でいっぱい共有したい。今日俺……生きた心地しなかった」
「うん」
「多岐絵がいなくなったら、俺、多分死んじゃう」
逸彦はドライヤーを放り投げ、多岐絵を背中から抱きしめた。その逸彦の腕に、多岐絵の涙がぽつりと落ちた。
「年上だよ。先にシミだらけのシワだらけになるし、体は弛むし」
「いいよ」
「ボケるかもよ」
「いいよ」
「ピアノは絶対やめない」
「やめさせない。でも、無理もさせない」
「子供……もし神様が授けて下さったら、私は……絶対に堕ろしたりしない。逸ちゃんと、目一杯愛して育てたい」
多岐絵が唇を震わせた。佐紀が子供より歌を選んだ事が、多岐絵の心に確かに影を落としていたのだ。ピアノの方を選ぶ……そうではない答えを口にしてくれた多岐絵を、逸彦は一層強く抱きしめた。
「そしたら産休取る」
「やぁねぇ、逸ちゃんが産休とってどうすんのよ。育休でしょ」
「いいんだよ。俺は、多岐絵も子供も命懸けで大切にする」
多岐絵の涙が、逸彦の腕にポツリと落ちた。
「ずっと、愛してくれる? 」
「多岐絵も、ずっと俺を愛してくれる? 」
うん、そう言いながら、多岐絵が逸彦をベッドの上に押し倒した。今日はただ抱きしめて寝るだけでいいと思ったが、その艶のある美しい顔で見下ろされ、逸彦はもう、抱かずにはおれなくなってしまった。
多岐絵を反転させるように体の下に横たえ、逸彦はゆっくりとその整った乳房の合間に顔を埋めていった。
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