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1.警部補最後の日!?
頭からプスプスと煙を出しながら試験場を後にし、深海逸彦はコンビニでペットボトルのお茶を買った。4月下旬の割に妙に暑い。冷えたお茶に加え、糖分の抜けきった脳みそにチョコレートでも補給するかと手を伸ばした時、後ろからニュッと逸彦よりも大きな手が逸彦の頰を擦るように伸びてくるなり、そのチョコレートを奪っていった。
「おい……」
憮然として振り向くと、そこにはチョコレートを手の中で跳ねさせながらニヤリと笑う悪友・霧生久紀が立っていた。
「んだよ。試験まで一緒か、おまえは」
「何なら昇進もご一緒しましょうよ、逸ちゃぁん」
わざとオネェ言葉で揶揄うと、久紀は逸彦より10センチ程高いところから溜息を吐きかけた。
「お茶なんか戻せよ。飲もうぜ」
「そうもいかないよ。まだ帳場の後始末が残ってる」
「ああ、例の、ヒルズ族の事件」
「送検は済んだからな。後は諸々書類仕事」
はぁ、と二人は同時に溜息をついた。警部補という階級上、現場にも出るが書類仕事はもっと多い。警察官は、紙の仕事をこなしてナンボである。
「ま、合格したら、飲むか」
「合格したら、な」
とはいえ、二人共これまで昇任試験で落ちた試しはない。どういうわけか同じタイミングで、同じ時期に昇進を重ねてきた。完全なる腐れ縁である。
久紀と別れて警視庁の捜査一課第四強行犯捜査殺人犯捜査第7係のデスクに戻った逸彦は、大きく背伸びしてからパソコンの電源を入れた。
立ち上がるまでにコーヒーでも飲むかと給湯室に行くと、警視庁管区押し倒したい男第一位に輝く美青年が、丁度コーヒーを入れているところであった。
「あ、お疲れ様です、深海主任」
「お疲れ様、桔梗原君……あれ、また本店(警視庁)に戻ってきたの」
「ええ、今日付けで強行犯の3係に」
「所轄で、何かあった? 」
「重い物持たせられないからと……意味不明ですよね」
「なんだそりゃ」
「ブラックで良いですか?」
「ああ、有難う」
そつなく用意されたコーヒーを手渡され、逸彦は少々面食らった。動きに僅かな遅滞もなく、まるでバレエの振付のように優雅で柔らかな動きで、いつ淹れたのか全く気付かない程だったからである。
桔梗原鸞と言う名のこの美青年は、元は音大を目指していたピアニストの卵ながら、突然方向転換をして警察官になるべく難関私大の法科を卒業し、国家公務員試験を突破した言わば変わり種のキャリア組である。しかも父上は警視庁副総監・桔梗原玄徳であるから、どこへいっても腫れ物に触るような扱いを受けているであろうことは、逸彦にも容易に想像できた。それに加え、リヤドロの陶器人形を思わせる完璧かつ可憐な顔立ちに、逸彦より長身ながら折れそうな細身と、深窓の御令息いや、深窓の姫君そのものの立ち姿は、特に男性陣の仕事のやる気を奪わせてしまうのである。警視庁管区押し倒したい男第一位というのは、広報誌がおふざけで取ったアンケートの結果であり、回答者の9割が男性警察官であった。むしろイジメに近いだろうと、広報誌の編集者に思わずクレームを入れたほどに、胸糞の悪い記事であった。
「3係は、確か世田谷署の帳場に出てるよね」
「ええ。僕はお留守番なんだそうです」
鸞が諦めたように、両手で包んだコーヒーの黒い液体を見つめ、苦笑した。
「えげつないことしやがるな」
「ご理解いただくまで、頑張るしかありません……初めて、この本庁で普通に話しかけてくださって、とても嬉しかったです」
そう言って逸彦に向き直ると、鸞は花が咲くような笑顔を見せたのだった。片手で包み込めるほどの丸みのある小顔で、バサバサと音を立てそうな長い睫毛に包まれた大きな瞳は黒々と輝き、ふっくらした唇はほんのり桜色である。吸い込まれそうなその美貌は、確かに押し倒してしまいたくなる……と納得しそうな自分を、逸彦は必死に叱咤した。
その儚いばかりの後ろ姿を見送りながら、逸彦は思わずむせてしまった。あの殺傷力抜群の完璧なプリンセススマイルに、息をするのも忘れてしまっていたのだ。
「やば……女どころか、男の方がみんなもっていかれるな、あれ」
必死で多岐絵の笑顔を思い出し、逸彦は両頬をピシャリと叩いた。
さぁ書くか、と書式を画面に出した途端、デスクの電話が鳴った。
「通り魔だぁ? ……虎ノ門か。ああ、今二人空いている……すぐ臨場する」
ここから十分ほどのオフィスビルに、薬物中毒と思われる男が包丁を振り回し、受付嬢一人と警備員を既に刺してしまっているとの入電であった。
一度電話を切り、内線で3係を呼び出すと、1コールで鸞が出た。
「留守番部隊は俺たちしかいない、来るか」
「車を回しておきます」
すぐに電話は切れた。中々反応がいい。これはもしやすると……とアドレナリンが湧き出す感覚のままに立ち上がり、上着を羽織りながら7係の部屋を後にした。
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