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 ここはとある総合病院。四階建ての建物の、五階への階段。リノリウムの床をスリッパで歩きながら男は、この先にあるささやかな幸福を空想する。  屋上。四角いコンクリート張りの地面はすこぶる風通しがいい。フェンスの張られていない(へり)を段々と上り、間違えて足を踏み外すところまで妄想して、男は階段を上る足を止めた。立ち入り禁止の張り紙がされた扉が目の前にある。彼は意に介することなくドアノブを捻る。そうすることは彼にとっての日常であり、必然であった。  男は五階の扉から外に出た。検診衣の袖口から秋晴れの空気が入り込む。彼は屋上で一番見晴らしのいい場所に、先客がいるのを見つけた。彼は浮ついた心が凍り付くのを感じた。  先客は、生と死とを分かつ僅か50センチほどの敷居に、寄りかかっては離れ、離れては寄りかかっていた。まるで、天国に行くか地獄に行くかの決定権が彼女――後姿を見るにかなり線の細い女だ――にはあって、どちらを選ぼうか悩んでいるように男には見えた。  男はこの病院に世話になるようになってからこういう光景を何度か目にしていた。生と死との狭間で揺れる人間達は、より濃厚な死を彼の内側に見て取り、我先にと病院内に逃げ込んでいくのが常であった。  男は入ってきた扉をそのまま開けておき、一本だけ懐に忍ばせていたタバコを咥え、「カチリ、カチリ」とライターを鳴らした。  音に気付いたのだろう、女は男の方を振り向いた。振り向いた横顔は遠目から見てもかなり若いことがわかる。恐らく二十歳(はたち)にすらなっていないだろう。彼は、女が想像よりも若かったことに驚き、もしくは呆れながら、火をつけるという役目を終えたライターを鳴らし続けた。  女は虚ろな眼で男を見ていたが、やがてライターの音がうるさくなってきたのか、今度は体ごと振り向いて、スリッパをコンクリートの床に擦りつけながら歩いてきた。  男は思い通りになったと油断して、あやうく咥えた煙草を落としかけた。歩いてくる女の腹部が、その華奢な体とは不釣り合いな程に膨らんでいたからだ。  男は入ってきた扉のすぐ脇にある壁に背を(もた)れながら、どう声を掛けたらいいものかと思案する。  結局彼が、女がこちらに歩いてくるまでの短い思考時間の中で出した答えは、「君、あんなところで何をしていたの?」という当たり障りの問いだった。 「ふうせんたまごを産んだんです」  女は男の目の前までくると、ごく当たり前の口調でそう言った。 「フウセンタマゴ?」  男は煙草を右手に持ちながら女の言葉を反芻する。彼としては、「街並みを眺めていたんです」というふうな、いかにもな嘘を()かれることを期待していた(その答えに対してどう話を進めるのかは考えていなかった)が、全くの嘘、あるいは嘘であるかもわからない、未知の嘘を吐かれるとは思ってもいなかったのだ。 「はい。風船のようにどんどん殻が大きくなっていく卵なので、『ふうせんたまご』って名づけました」  女は彼女の腹に比べて膨らみの小さい胸の前に手でお椀を作っていた。お椀の上には何も乗っていない。女の表情は真剣そのもので、男はそこに疑う余地を見出せなかった。  ふと、男は気付いた。 「もしかして、『ふうせんたまご』っていうのは君のお腹のこと?」  ――なるほど。子宮を卵に見立てればそれは紛れも無く、風船のように膨らむ卵だ。  しかし男の解釈は外れた。女は自分の腹部に視線を落とすなり、暗い顔になった。 「違います。人間は卵からは生まれません。……それに私は、人の成りそこないなんです」  男は失念していた。この女は先ほどまで屋上の(へり)に立っていたのだ。そして彼女がそこまで思い詰める理由など、彼は一つしか思いつかない。  男は愚かな自分を罰するようにタバコの煙を深く吸い込み、吐き出した。3ミリのタバコは彼の全力の深呼吸にも関わらず、彼に大した苦痛をもたらさなかった。  男は視界に俯く女の姿と、青い空に吸われていく白い煙とが一緒に映るのを見た。 「すまない!」  慌てて男は壁を背にしながらドアと反対方向にずれる。煙草の煙と妊婦。無神経な男性と性被害女性。どちらにしても最悪の組み合わせだ。 「いえ……」  女は俯き、胸の前で『ふうせんたまご』を抱えたまま、先ほどまで男が寄りかかっていた壁に背を預けた。  寒空の下をしばらくの静寂が支配する。  男はタバコを吹かし続けていた。妊婦に、というよりも胎児に、タバコの副流煙が毒だということは重々承知していたが、彼としては寧ろ、煙草の臭いを嫌う虫のように、彼女の方からいなくなってくれることを願っていた。  ――ここは俺の居場所だ。君の居場所じゃない。  男の願いは届かず女は微動だにしない。タバコは半分の長さになっていた。 「……君、名前は?」  男はタバコの火が消えてしまえば女の命も(つい)えてしまう気がした。そうなればあるいは彼の願いは叶ったかもしれないが、今の彼に女を見殺しにするという選択肢は無かった。彼は再び当たり障りのない、というよりは、女の繊弱な琴線を踏み断ってしまわないことを聞いた。  男が口を開くのを待っていたのか、女はいきなり顔を上げて男の方を向いた。少し口籠る。 「……草田(くさた)玉子(たまこ)です」  男は煙草を口から外し、横目で女の顔を見る。化粧っ気のない瑞々しい顔は、目が大きく、喋ると前歯が見える。愛らしいと言っていい顔立ちだった。  ――くさた たまこ……腐った卵か。ふざけた名前だ。 「そう。じゃあ俺は……天津飯(てんしんはん)だ」  十数秒前まで暗い顔をしていた女が、どうしてそんな冗談のような偽名を使ったのか男にはわからなかったが、とにかく彼女の機嫌を取りたくて彼は冗談を言った。男の口の()が彼の無意識の内に緩んだ。 「中国の(かた)なんですか?」  女は大きい目をさらに見開き、首を傾げた。男の冗談は不発に終わってしまった。 「……そういうことでいいや。とりあえず(はん)って呼んでくれ」 「じゃあ私のことは玉子(たまこ)って呼んでください」 「それだとなんだか、卵かけご飯みたいだな」  今度こそ女は笑った。男は胸を撫で下ろす。指先が熱くなるのを感じた。タバコが尽きかけていた。 「さてと、俺はもう戻るかな。玉子さんも早く戻った方がいい。お腹の……じゃなくて、『ふうせんたまご』に障るんじゃないか?」  男はタバコの火をコンクリートに()り付けて消すと、(もた)れかかっていた壁から背を離し、院内に戻ろうとする。彼は女の前を横切る時、彼女の方を一瞥(いちべつ)し、様子を窺った。  笑いこそ消えていたものの、どこか満ち足りた表情をした女は、相変わらず『ふうせんたまご』を大事そうに抱えていた。      ※ ※ ※  男は窓際の病床に戻り読書を始める。ここは彼のためのベッドだ。しかしこの場所は彼のものではない。彼の居場所などこの世界のどこにもない。彼はそう信じていた。  男の世界は空虚な彼自身だけが全てだった。本と寝床と一日五分外出する時間とがあれば満ち足りた。たまにハードカバーの本を読みたいだとか、時間を気にせず屋上に寝ころびたいだとか、そういった欲が出ることはあっても、それらは全て彼の中で折り合いをつけることができる問題だった。所詮他人は彼にとって、別世界の住人に過ぎなかった。しかし、今の彼は明らかにその別世界に干渉していた。  男の向かいの患者が苦痛に呻く声を上げた。きっと数分もしないうちに医師やら看護師やらが駆けつけてくるはずだ。  靴が床を叩く音に、事務的に繰り返される必死の呼びかけに、彼の向かいに横たわる患者の生への執着に、なによりそれらを想像できてしまう自分に、男は煩わしさを見てとった。  男は本を閉じた。栞の位置は動いていない。頭の中の雑音が多すぎて、本の内容が入り込む余地が無かったのだ。本に書いてある内容など、彼にとってはどうでもいいことであったはずなのに……。  男は閉じた本を枕元にある棚に放り込み、布団を頭まで被った。まるで小さい子供が言い知れぬ恐怖を感じた時にそうするように。 「『ふうせんたまご』……」  男は暗い殻の中で、彼の知る限り、最も暗い意味を持つ言葉を吐き出した。    
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