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弐
翌日男が屋上に行くと、玉子と名乗った女が扉のすぐ横に背を凭れかけていた。相変わらず胸の前で『ふうせんたまご』を抱えている。
男は軽く会釈した後、女の右隣の壁に移動する。今日も一本だけ懐に忍ばせていたタバコを咥えた。
男の一挙手一投足を見つめていた女は、男がタバコに火を着けたのを見計らい、切り出した。
「飯さんは、今までに割った卵の数を覚えていますか?」
「……99822個だ」
男は最初の煙を吐き出してから答えた。彼は一々覚えていない数を聞かれたときいつもこの数を答えていた。
「コックさんだったんですか?」
「……まあ、そんなところだ」
女は、男が昨日『天津飯』と名乗った時と同じ顔をした。男の冗談を女は理解できない。男と女との間には、その程度のジェネレーションギャップがあった。
女はタバコの煙が1メートルほど伸びる間、不思議そうな顔をしていた。やがて期待を込めて男に問いかけた。
「そんなにたくさん卵を割っていたら、『有精卵』って見たことありますか?」
「有精卵? ないな」
男のあっさりとした否定に女は失望した。もっとも、スーパーで一番安いたまごしか買ったことのない程度の男が有精卵を見たことが無いのも、女の期待に沿えるほどの甲斐性が無いのも当然のことだった。
「そうなんですね。……私はあります。スーパーで買ったパックの卵を割ったら白くて丸いものが混じっていたんです。母に聞いたら『それは有精卵だ』と言っていました。私は知らない間に命を割ってしまったんです」
男は、女が「母」というのを聞いて驚いた。『たまご、たまご』と繰り返し聞かされる内に男の無意識には、「この女が卵から生まれた」というあり得ない想定が、当然の事実として刷り込まれてしまっていた。
そんな男の驚きが女に伝わるはずもなく、彼女は話を続ける。
「どんな経緯で卵が命を持ったかはわかりません。もしかしたら産み落とした卵に誰かが何かをかけたのかも……」
男は、子供が犬の糞に小便をひっかけるように、自分が卵に精をかけている姿を想像した。そんなことで卵は孵化するはずもないが、そのどうしようもなく下品な絵が、世界の真実の一端を掴んでいるのではないか。男は訳も無くそう思った。
「……とにかくその時から、私にとって子供は卵から孵るものになりました。そして私は昨日、この『ふうせんたまご』を産んだんです」
「玉子さんはトリになったのかい?」
滔々と語り終えた女に、男は当然のように疑問をぶつける。
女の話は荒唐無稽なものだが、男にはそれまでに積み重ねたありえない幻想から、その疑問は必然的に導き出されるものに思えた。
「そうだと思います。だから昨日は屋上から空を眺めていたんです。もしかしたら飛べるかも……なんて。でも私は飛べません。トリの、なりそこないなんです」
女はそう言うと、『ふうせんたまご』を抱えて俯いた。
男は愛し子を抱くような女の姿を見て、この女は死にたがっていたのではなく、死に縛り付けられているのだと直感した。
「飛べないトリなんていくらでもいるさ。鶏だってそうだ」
「鶏は飛べますよ。人間に飛べなくされただけで。……それに、硬い殻をもった卵を産みます。私の『ふうせんたまご』とは違います」
男は女の胸元にあるという『ふうせんたまご』を凝視したが、女の腹に丸く持ち上げられた検診衣しか見えなかった。
「『ふうせんたまご』が割れたらどうなるんだ?」
「それは私にもわかりません。そうだ飯さん、『ふうせんたまご』を温めてみませんか?」
俯いていた女は何かを見つけたように顔を上げると、男に『ふうせんたまご』を差し出した。
男は、女の掌の中にどす黒い生命が蹲っているのをはっきりと感じ、それを手にしたい誘惑にかられた。
「いいのかい? 俺が命を育てられるとは思えないんだけど」
「そうなんですか?」
女が反問した時、男は指先に熱を感じた。タバコは指先まで残り数センチのところで弱々しく白い煙を吐き出していた。
「俺はもう、終わっているから」
タバコを擦り消しながら、男はふと思った。
――終わっている俺だからこそ、『ふうせんたまご』を持つべきなんじゃないのか?
男は、女の掌の上にあるという『ふうせんたまご』を鷲掴みで受け取った。彼の手には何の感触も無い。
女はたまごを粗雑に扱われたことを怒るでもなく、何か言いたげに口を開閉させただけで、結局何も言わなかった。
男は右手で掴んでいるという『ふうせんたまご』を両手で包み直してから、院内へと戻った。
※ ※ ※
男はベッドの上に座りながら、世界の秘密を探ろうとする科学者のように、念入りに『ふうせんたまご』を観察する。彼の目には、相変わらず彼の両腕と検診衣に包まれた下半身しか映らない。彼は静寂の中にいた。彼は歪な形で、彼だけの世界を取り戻していた。もっとも、知恵にせよ技術せよ、自分の力で手にしたわけでないものは大抵の場合、外部から少し力が加わるだけで歪んだり壊れたりしてしまう。
「佐藤さん、何を見てらっしゃるんですか?」
嗄れて、調子も外れた声が、男の不安定な殻を突き破った。”佐藤”とは男の苗字だが、それは彼のルーツを表すものであって、未来に繋がるものではない。男には妻子が無かった。
「……『ふうせんたまご』だそうです」
男は声のした方を見ないで答える。声の主を確認する必要はない。この病室には彼ともう一人、鈴木という60代の末期がん患者しかいなかった。
鈴木は以前から同室の男と話をしたかったが、男はいつも本を読み、彼の殻の中に閉じ篭っていた。
「『ふうせんたまご』……! それはなんですか?」
「さあ?」
――間違いなく、あなたよりは俺に近いものだ。
男はそう付け加えようとして、やめた。鈴木は、数日に一度家族が見舞いに来る。苦痛を感じたらすぐナースコールをする。抗がん剤治療で必死に死に抗おうとする(そんなことをするよりは、カロリー制限をしたうえで、体力を落とさないように体を動かした方がいいとも、彼は思っていた)。そんな鈴木を、男は無意識に死者としての序列で下に見ていた。男はそんな自分の傲慢さを発見したのだ。
「……なんなんでしょうね? 本当に」
男は『ふうせんたまご』を膝の上に載せ、鈴木の方を向いておどけてみせた。自分のベッドで体を起こす鈴木は穏やかな顔をしていた。それは確かに生を謳歌する者の顔ではあったが、決して貪欲に追い求めようとする者のそれではなかった。
鈴木は納得したように、ゆっくりと一定の間隔で頷いていた。
男は鈴木から、膝の上にあるという『ふうせんたまご』に視線を戻した。彼は一月来の同居人に対して、結局大した関心は持てなかった。
男の関心は『ふうせんたまご』に集中していた。これを母親に返すべきか返さざるべきか……。
酒飲みで薬物中毒の母親不適合者(もちろん玉子と名乗った女はそうではないだろう)から子供を奪い育てる犯罪者。卵を親鳥の元に返そうとする養鶏一家の子供。……
そんな全く『ふうせんたまご』の説明にならない比喩が、男の頭の中に浮かんでは消えて行った。
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