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 翌日も男が屋上に足を運ぶと女はいた。もし女がいなければ男は『ふうせんたまご』を持ち逃げするつもりだったが、結局彼は、『ふうせんたまご』を女に返した。女は『ふうせんたまご』を両手のお椀で受け取り、胸に押し抱いた。  女は、男が昨日と同じ場所でタバコに火をつけたところを見計らって声をかけた。 「飯さんはなんでこの病院にいるんですか?」  女は、男が昨日の別れ際に言った「俺はもう、終わっているから」という言葉の意味を知りたかった。 「死ぬためさ」  躊躇(ためら)うことなく死を吐露(とろ)した男を、驚いたように女は見た。両者の間に沈黙が流れる。  味の薄い煙草を吹かし続けながら、男はこの沈黙を、ただやみくもに命を消費し続けるだけのこの時間を、心地よいものと感じていた。  男は末期がんだった。皮肉なことに無事なのは肺だけで、あとはほとんど全身に転移している。彼は厳然たるその事実を容易く受け止めた。祖先から脈々と受け継がれてきた肉体が、別の何かに完全に置き換わるまで。あるいは、途中で彼という存在を保っていられなくなり、ドロドロに溶けて土に還るまで。その経過を彼はただ無感動に見守っていた。  ふと彼は、今の自分を例えるのにふさわしい言葉を、つい最近聞いたことを思い出した。 「……腐った卵」  男は薄く笑った。  殻の中で腐臭を放ちながら死んでいく卵。外から見てもそれは健全ものと区別がつかないが、それは紛れも無く腐った卵なのだ。  そんな人間に一日とは言え、『ふうせんたまご』を託した女が可笑(おか)しかった。可笑(おか)しくて、男は笑ったのだ。  女は男の笑いをどう受け取ったのだろう。顔を赤らめ、お椀型にした手が震える。カチリ。閉じた口の中で奥歯が噛み合わさる音が聞こえた。 「く さ た た ま こ です! 飯さんって意外と失礼なことを言うんですね!」  女は、この3日間で発した中で一番溌剌(はつらつ)とした声で男を(なじ)った。草田玉子というのは女の本名だった。そして「腐った卵」というのは、小学校低学年の時の彼女のあだ名だ。コンプレックスを掘り返された女は、どうしようもない怒りを10年越しに蘇らせたのだった。  男はごめんと、女に向けて手刀を切る。彼の手は、女の手のお椀を真っ二つにし、彼女の腹の部分で膨らんだ診察衣に触れた。男はヒヤリとした。彼の死が手を通して伝播してしまう気がしたからだ。 「ああ! なんてことするんですか! たまごが……」  しかし男の心配は杞憂で、女の怒りはその若々しいエネルギーを保ったままでいた。  男の手刀は『ふうせんたまご』を彼女の手から叩き落としてしまったようだ。 「割れちゃった?」 「割れませんよ!『ふうせんたまご』なんですから。あ~あ、あんな所に行っちゃった……」  女は、まるでヘリウムガス風船を手放してしまった子供のように、両腕を秋空に伸ばし、やがて手が届かないことを知ると、非難がましく男を見た。  男はその視線を受け止め、安堵した。  男は半分以上残っていたタバコの火を擦り消して、壁から背を離す。ここに彼が留まっていてはいけない。ここはたった今、彼の居場所ではなくなってしまった。そう男は理解した。 「いいじゃないか。トリは卵を産み落とすものなんだろ? 玉子さんがいつまでも抱えていたら『ふうせんたまご』は腐ってしまうよ」 「せっかく、せっかく苦労して産んだのに……」  男は女の前を通り過ぎる。女はまた俯いていた。そこに男が見たのは、不浄で病的な陰鬱さではなく、純粋で健全な悲しさだった。 「君が本当にトリなら、また産めるさ」  そう言い残して男は屋上の扉をくぐり、病棟へと続く階段を(くだ)って行った。
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