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遠くで救急車のサイレンの音がする。
それは夜の静寂を無遠慮に切り裂きながら、次第に家の方へと近づいてくる。正確には、家の裏手にある父が経営する病院に。ああ、これはうちに運ばれる急患だなと漣が思った矢先、サイレンは、まさにその裏手の病院でぴたりと止まる。
「最近多くない? 急患」
リビングのソファに、Tシャツに短パンというラフな姿でだらしなく横たわる妹の美海が、スマホを眺めながらうんざり顔で兄にぼやく。不安よりは迷惑の色が明らかに強い声色に、好き勝手を許されるこいつは気楽でいいな、と漣は思う。
令和のご時世、未だに家督は男が継ぐものだと考える父は、長男である漣には医学部進学を強制し、その妹で長女の美海には好きにしろとばかりに放任主義を取っている。一応、美海も来年春には大学に進むつもりらしいが、一日中机に噛りついていた受験生時代の兄と違い、相変わらず気楽な高校生活をエンジョイしている。先日も、吉祥寺駅のアーケード街で大学生と思しき男と歩いていた。外で見かけるたびに違う男を連れ歩く美海は、確かに、兄の欲目を抜きにしても美少女と呼ばれる部類だ。が、おかげで何事も愛嬌で乗り切ってしまう悪い癖がある。受験の方も、適当な私大に推薦枠で滑り込もう、という魂胆が見え見えだ。
要するに、裏手の病院で日々繰り広げられる戦いは、彼女にしてみれば一生縁のない対岸の火事なのだ。一方、漣にとってはいずれ通る道であり、決して他人事ではない。
ただ……それにしても多いな、とは漣も思う。
漣の父が経営する同志会海江田病院は、病床数約四百、この地域では最も規模の大きな総合病院だ。なので、この近辺で急患が出ると大概ここに運ばれてくる。
それでも通常は、せいぜい多くて日に五件ほどだ。それが、ここ一か月は少なくとも日に七、八件、多い日では二桁に至ることもある。もちろん、受け入れ枠がなければ断ることもできるが、周辺に受け入れ可能な病院が見つからない場合、それならうちが、と引き取るのが父の信条で、そのたびに非番の医師や看護師までもが緊急招集される羽目になる。父本人も、ここ半月はほとんど病院の仮眠室で寝起きしている。
何かが起きている。
部外者の漣でさえそう予感せざるをえない異変が、日常のすぐ裏手で起こり、今なお進行してる。
「また、例の患者かしら」
そう、あからさまに顔を曇らせたのはキッチンに立つ母の美香だ。美海をそのまま二十歳ほど老けさせたようなビジュアルの母だが、元の顔立ちが良いせいか、今も三十代で充分に通る。実際、美海とランチに出かけると、姉妹と間違われることも多いそうだ。
「おかえり、漣。夕食はまだだったわよね?」
「えっ? ・・・あ、うん」
カウンター越しの問いに頷くと、漣はダイニングテーブルに着く。さっそくテーブルに並ぶ料理。今夜の献立はロールキャベツとコンソメスープ、フランスパン。万年ダイエット中の美海なら喜びそうなメニューだが、漣としては、もう少しがっつりした肉料理が欲しいところだ。かといって、自分で作るほどの熱意も暇もないから、結局は出されたものを出されたぶんだけ口に運ぶ。
テーブルに着くのはいつも一人。どうせ父は戻らないし、母と美海は、あまり遅くなると太るから、と、七時頃に早々と夕食を済ませている。すでに時刻は、午後の八時を大きく回っていた。
「お勉強の方はどう?」
斜め切りにされたパンにさっそくかぶりついていると、カウンター越しに心配顔で母が問うてきた。
「えっ……まぁ、ぼちぼち」
「今日も、大学で頑張ってたの?」
どうやら自習のために居残っていたと思われているらしい。本当は上野の国立博物館に、展示替えで新しく置かれた安土桃山の屏風絵を見に行った、とは口が裂けても言わない。
「ん……まぁ、そんな感じ」
すると美香は、なぜか寂しげな顔をする。ああ、これは気づいている顔だな、と、何となく漣は察する。きっと母は、息子の嘘に気付いている。息子の世界から密かに弾き出されていることに。
せめて……母にぐらいは打ち明けてもいいだろうか。
そんな逡巡が、ほんの一瞬、漣の胸を掠める。そもそも、漣にこの世界の――アートの面白さを教えてくれたのは彼女なのだ。漣が小さい頃は「退屈でごめんね」と言いながら趣味の美術鑑賞に連れ回し、でもそれは、漣にとっても楽しい時間だった。美海は、早々に飽きて暴れていたけれど。
そんなことを取り留めもなく考えながら、漣は夕食を口に運ぶ。健康志向の薄い味付けは、まだまだ食べ盛りの漣にはやはり物足りない。
「ごちそうさま」
食事を終え、テーブルを立つ。空になった皿をキッチンに運び、椅子の足元に置いていた通学用のボストンバッグを抱え直すと、そのまま玄関ホールへと出る。背後に母の寂しげな視線を感じたが、漣はあえて気付かないふりをした。
ホールから二階への階段を上り、自室へ。八畳ほどの洋室には、勉強用の机とベッド、それから、大学の授業で必要な医学辞典などの教材を詰めこんだ本棚が置かれている。それ以外の、例えば趣味を反映した本やグッズは皆無で、我ながら殺風景な部屋だなと漣は思う。美海の部屋が、ぬいぐるみやコスメ、好みの服で年中ごちゃついているのとは対照的だ。
何の愛着も持てない部屋を横切り、奥のウォークインクローゼットに向かう。腰高に積んだカラーボックスの上に通学用のボストンバッグを置くと、代わりに、二回りは大きなドラムバッグを頭上の作りつけの棚から下ろした。
動かしたはずみで、中でカチッと金属質の音が鳴る。それをあえて無視すると、漣は、ドラムバッグを抱えて一階に戻る。向かう先は玄関。
その玄関ホールで、ちょうどリビングから出てきた美海と鉢合わせする。
「またファミレスで勉強?」
「ん……まあな。どうした?」
すると美海は、なぜか渋い顔をする。いつもは「あ、そう」と何食わぬ顔で見送る妹が。
「いや、最近ほら、例の昏倒事件が増えてんじゃん? いや、事故か事件かはわかんないけど、でも実際、うちも急患とか増えてるし……」
「・・・ああ、」
どうやら妹なりに、今の状況を当事者として捉えていたらしい。
確かに。ここ最近急増する急患の原因は、その、謎の昏倒事件で間違いない。ニュースでは地中から漏れた有毒ガスが原因だとする説が有力視されていて、連日、地質学者と称する専門家が尤もらしい自説を並べている。
ただ、原因は何であれ、だから何だと漣は思う。
そもそもこの用事は、夜でなければこなせないのだ。
「とにかく、さ、夜とか出歩かない方がよくない? ママも心配してたし」
「いや大丈夫だって。俺、男だし」
「いやいや、そういう問題じゃないし……」
そして美海は、手元で手早くスマホを弄ると、やがて漣の鼻先にそれを突き出してくる。女子高生らしくキャラもののカバーで賑やかにデコられたスマホ。そこに表示された記事は、しかし、ひどく剣呑なものだった。
「……死を呼ぶ絵?」
「うん。今ね、うちのクラスで話題になってんの。最近うちの近所で起きてる謎の昏倒事件はね、その、死を呼ぶ絵のせいだって。理屈はわかんないけど、とにかく、見ただけで死んじゃう絵らしくて……そういう絵をね、トンネルとかビルの壁に描いて回ってる人がいるんだって。この近所に」
一瞬、冷たい予感が背筋を撫でる。それを曖昧な笑みで押し隠すと、漣は、「へぇ、怖いね」と何食わぬ顔を装う。
「あとでURL送るから、お兄ちゃんも読んでみて」
「は? いや俺は別に――」
その時、不意に玄関ドアが開いて、白衣姿の男がのっそりと入ってくる。漣もそれなりに背の高い方だが、そんな漣にすら威圧感を与える大柄なその男は海江田将司。裏手にある海江田病院の院長であり、同時に漣の父親でもある。ただ、普段は看護師の間でイケオジと囁かれる端正な顔も、ここしばらく続く激務のせいか、今はひどくくたびれて見える。よく見ると白衣も、その下のシャツとパンツもよれよれだ。
その父は、玄関で靴を履き終えた息子を一瞥するなり、あからさまに険しい顔をする。
「こんな時間にどこに出かけるつもりだ」
「え……勉強、だけど……ファミレスに……」
すると将司は、は、と聞えよがしの溜息をつくと、白髪が混じり始めた頭をばりばりと掻く。こんな時に呑気なものだと言いたげな顔。
「……まぁいい、あまり遅くならんようにな」
それだけ言い残すと、将司は無造作に革靴を脱ぎ、大股で風呂場へと向かう。シャワーと着替えを済ませたら、すぐにも病院に戻るつもりなのだろう。
そんな父の大きすぎる背中を見送りながら、漣はそっと玄関を出る。ドラムバッグの持ち手をリュックの要領で両肩にかけ、車庫で愛用のロードバイクに跨る。そうして夜の町へと軽やかに駆け出しながら、漣が思い出していたのは先程の美海との会話だった。
――理屈はわかんないけど、とにかく、見ただけで死んじゃう絵らしくて。
――そういう絵をね、トンネルとかビルの壁に描いて回ってる人がいるんだって。
いや、まさか。
ありえないだろうそんなこと。科学的にも、それに医学的にも。
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