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父の病院で週に三、四回、漣は、ちょっとしたボランティアをしている。
ボランティアといっても、国家資格を持たない漣に医療行為はこなせない。代わりに任されているのは、長期入院する小児の家庭教師だ。
「うん、だから台形の面積を求めるときはね、合同・・・同じ形と大きさの台形をもう一つ横に繋げて、そうやってできた大きな平行四辺形を二で割るんだ。平行四辺形の面積の求め方は一昨日やったよね?」
すると、ベッドテーブルで教科書を睨んでいた少年は、顔を上げ、こく、と大きく頷く。もう小学五年生になるのに、まだ八歳か九歳ぐらいに見える彼の名は伊勢谷晃。かれこれ半年近く入院しているが、いっこうに病状が改善しないのは、そもそも彼の心臓に問題があるからだ。
晃は、それこそ病気で苦しむためだけに生まれてきたような子だ。
生まれつき心臓に障害を持ち、しかも、その障害は改善の見込みはなく、もはや臓器移植に頼らなければ根治は見込めない。この五年ほどは入退院を繰り返し、おかげで漣ともすっかり顔馴染みになった彼だが、本来なら同じ年頃の子供たちと、学校でともに学びたかったはずだ。
かわいそうに。
晃のパジャマから覗く細い腕は、いつだって点滴の跡で青黒く染まっている。そんな晃の痛々しい姿を目にするたび、果たしてこの子は生まれるべきだったのかと漣は自問してしまう。・・・わかっている。これから医者になろうという人間が抱くべき問いじゃない。それでも日々、患者たちの苦しい闘病生活を見守っていると、そんな思考に襲われることが稀にある。これほどの痛みを、寂しさを抱えてまでしがみつく価値が、人の生にはあるのだろうか。
いっそ・・・早く楽になってしまった方が。
「お兄ちゃん?」
不意の呼びかけに、漣ははっと我に返る。見ると、晃が不思議そうに漣の顔を覗き込んでいる。
「大丈夫? お兄ちゃん、顔、真っ青だよ」
「あ・・・いや、うん、大丈夫・・・」
曖昧に笑いながら、駄目だな、と漣は自省する。ここ数日だけで、家族や同級生に何度同じ言葉をかけられたか。挙句、こんな子供にまで。
その時、またしても遠くから救急車のサイレンが近づいてくる。やがて、それは病院の裏口でぴたりと止んだ。
「最近多いね」
それまでじっと窓の外を眺めていた晃が、小さく呟く。
「そう・・・だね」
「あれかな、うわさの、見ると死ぬ――」
「迷信に決まってるだろそんなの」
びく、と晃の細い肩が震えて、自分が思いのほか硬い声を発していたことに漣は気付く。ああ、怖がらせてしまった。それでも、腹の底から湧き出す苛立ちは止まない。何が・・・見ると死ぬ絵だ。見ただけで死ぬ? ふざけるな。あれから顔見知りの眼科や神経科の医師に聞いてみたが、そんな現象は医学的にありえないと断言してくれた。漣も、大学の図書館で関連する文献を手あたり次第開いてみたが、やはり、そうした現象を説明する記述は一つも見当たらなかった。
ありえない。
漣としては、そう結論づけるしかなかった。
にもかかわらず、相変わらず謎の昏倒事件は続き、しかも、漣にとっては嫌なピースばかりが出揃ってゆく。
――今度は三鷹だそうだ。
二日前、救急医が看護師とそんな会話を交わしているのを漣は偶然耳にしていた。彼らの会話からは、具体的に三鷹のどこかまでは判明しなかった。が、漣が拠点を三鷹に移した途端、被害者の発生場所もそちらに移ったのは、偶然と片付けるにはさすがに出来すぎている。
その患者は、搬送後、間もなく死亡が確認された。
「ああ・・・ごめんよ」
怯える晃を宥めるように、漣は笑いかける。その笑みがひどく強張っていることに、漣は自分で気付いている。
「そう、だね。そんな絵が本当にあったら・・・怖いね」
やがて病室に、晃の友達が駆け込んでくる。晃の幼馴染で、学校のプリントや担任の手紙のほか、病室で退屈する晃のためにジャンプや携帯ゲームのソフトを持ってきてくれる良い子だ。欠点は、元気がありあまりすぎて騒々しすぎること。
「ああ、亮介君か、いらっしゃい」
「おー、漣兄ちゃんおっすおっす! ――なぁ晃、聞いてくれよ。なんか今度は三鷹に描かれてたらしいぞ!」
「描かれてたって、何が・・・?」
不安な顔をする晃に、亮介は案の定、あの話をする。やはり、例の噂を吹き込んだ犯人は亮介だったらしい。確かに、この手の噂は小学生の大好物だ。
「あまり晃君を怖がらせないでくれるかな」
そう亮介に釘を刺しながら、どの口が、と漣は思う。どの口でそれを言う。そもそもお前が――俺が、あんな落書きをしなければ。
いや違う。あれは俺のせいじゃない。
「あれ? 漣兄ちゃん、なんか痩せた?」
「・・・え?」
「大丈夫かよ。てか顔色も悪いし。晃に変な病気うつさないでくれよぉ」
「やめなよ! お兄ちゃんに失礼だろ!」
「いやいや晃くん、いいんだ・・・そうだね、気をつける」
その後、漣は足早に病室を後にする。一階に降り、何となく救急救命室の方に足を向けると、急患を受け入れたばかりで騒々しいはずの奥がやけに静かだ。
やがて救急救命室のドアから、医師や看護師たちに押されて一台のストレッチャーが現われる。患者の顔はわからなかった。というのも、頭の先まですっぽりと毛布に覆われていたからだ。そのままストレッチャーは、廊下のさらに奥の扉へと運ばれてゆく。その、病院の案内板では黒く塗り潰された四畳ほどの小さなスペースが、実は霊安室であることを関係者なら誰もが知っている。
・・・俺が殺した。
そんな思考が、ふと背筋を貫く。感電に似たショックに膝が崩れ、廊下の隅にずるずるとへたり込んだ。
「あ・・・あは・・・」
ふたたび漏れる、あの乾いた笑み。いや違う、これはきっと悲鳴だ。あれが今の惨劇の原因だったとして、それでも漣は、描かずにはいられなかった。さもなければ、漣は、漣でなくなってしまう。だから・・・だから何だ。そんな理由で申し開きができるのか。奪われた命たちに。
わかっている。でも――
スマホが着信を告げたのはそんな時だった。ぎくりと身構え、おそるおそるポケットから取り出す。表示された番号は父、将司のそれで、よりにもよってこんな時に、と漣は皮肉な笑みを浮かべる。逃げるな、ということか。それを言えば、そもそもどこに逃げればいいんだ。
「・・・もしもし」
『漣か。どこにいる』
「どこって・・・病院だよ。晃君の勉強を見てたんだ」
『そうか。なら、今すぐ切り上げて帰ってこい。お前に客だ』
「客? ・・・まさか、刑事?」
とうとう落書きの主として突き止められたのだろうか。ところが将司は、電話の向こうで呆れたように溜息をつくと、漣が予想だにしない言葉を続ける。
『刑事? 一体何の話だ。・・・藝術協会日本支部のキュレーター、と名乗る方が、お前に会いたいといらしている。漣、心当たりはあるか』
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