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その綺麗な男は、嶋野凪、と名乗った。
男……なのだろう。タイトなツーピーススーツの似合う、均整の取れたスレンダーな身体は間違いなく男の骨格だ。長い手足に高い等身。声も、男性特有の柔らかなテノール。ただ、顔立ちはどこまでも中性的で、男と思えば男に、女だと思えば女にも見える。
なめらかな輪郭の細面に、熟練の人形師が描き込んだような切れ長の眉目。形の良い鼻筋。生まれてこのかた一度も焼いたことがなさそうな、透明感のある白肌――が、そうした人工的とも取れるパーツとは裏腹に、唇の方はやけに生々しく、むしろ蠱惑的ですらある。
その、男にしてはやけに艶めかしい唇がふと笑んで、何となしに見つめていた漣は急に後ろめたくなる。
「あ……すみません」
「いいんです。私の方こそ急に押しかけてしまって」
「えっ? あ……ああ、いいんです、それは、はい」
どうやら嶋野は、漣の謝罪を遅刻のそれだと受け取ったらしい。なら、それはそれで構わないかと漣は思う。本当の理由を明かしたところで、どのみち不快な思いをさせるだけだ。
年齢は、外見だけで言えば高校生にも見えるが、ただ、纏う落ち着きは紛れもなく社会人のそれだ。性別も年齢も、全てが掴みどころのないその男は、概念上の美青年をそのまま具現化したかのようでもある。何にせよ、全てが浮世離れている。
「では、事前に申し上げたとおり、あとは漣くんと二人にさせて頂けますか」
肩越しに応接セットを振り返り、嶋野が言う。すると父の将司は苦い顔をし、ソファに掛けたまま「いえ」と小さく被りを振る。
「やはり私も同席させて頂きます。他ならぬ息子のことです。親が同席しないでどうします」
そうは言いながら、父がキッチンの母を呼びつける様子はない。この人はいつもそうだ。家族のことは、全て、この人が決める。進路も将来も、人生さえも。漣を医者にした後は、今度は病院の後継者として経営学を叩き込むのだろう。やがて適当な女性を宛がい、今度は家庭という枷で息子を縛るのだ。
辛うじて自由が許されるのは、この人の関心が及ばない領域だけ。
その意味で、美海は憐れだと漣は思う。彼女に自由な生き方が許されるのは、要するに、父に何の期待も関心も向けられていないから。
「それとも、親に同席されると困るような話でも?」
「……いえ」
父を見据える嶋野の目が、す、と細められる。その眼差しに漣は一瞬ぞっとなる。冷たい、どころではない。一切の温度を感じさせない絶対零度の視線。もっとも父の方は、そんな客人の視線の冷たさには気付いてもいないらしい。
「構いません。ただ……その場合、お父様にとっては大変ショッキングなお話もお聞かせしてしまうことになりますが、構いませんか」
「どういう意味です」
気色ばむ父をよそに、漣は、やっぱりあの話をするんだなと静かに受け止める。どのみち逃げきれるはずはなかったのだ。いつかは誰かに捕捉され、罪を暴かれ、そして然るべき罰が下される。それは、避けることのできない結末だ。たとえ既存の刑法で裁かれなくとも、漣が、人命より己の欲望を優先させてしまったことは事実なのだから。
問題は、その糾弾がどのようになされるのか、だ。
内心の罪はともかく、客観的に見れば漣はただ公共物や廃ビルに落書きをしただけだ。漣を殺人者として訴えようと思えば、当然、絵の力についても言及する必要がある。……ギフテッド、とやらの存在についても。
「そのままの意味です。まぁ、どのみちご理解を頂くのは難しいかと思われますが。――さて漣くん、まずはこちらへ」
「……はぁ」
促され、とりあえず嶋野の向かいに腰を下ろす。ソファの座面に振動を感じて、見ると、隣で将司が小さく貧乏揺すりをしている。どうにか平静を装ってはいるが、内心では、嶋野の嘲弄めいた物言いに相当苛ついているのだろう。
そういえばなぜ父は、この、得体の知れない客人をすんなり家に上げたのだろう。仕事関係や父への個人的な来客はともかく、家族への来客は有名百貨店の外商か、さもなければ子供の通う学校の関係者ぐらいしか受け付けない父が。
それとも、その藝術協会とやらはにはそれほどの権威が?
「さて……単刀直入に問います。漣くん、あの田無の廃ビルにグラフティを描きつけたのは、君で間違いありませんね」
「失礼。グラフティとは」
咄嗟に口を挟む将司に、嶋野は「要するに落書きですね」とあっさり答える。
「落書き!? いや待ってください。どうしてうちの息子がそんな――」
「はい。俺が描きました」
父の抗議をよそに、漣はすんなり首肯する。
「田無のだけじゃありません。伏見通りの地下道のやつも、それに……三鷹のやつも、全部、俺が描きました」
そんな漣の隣で、将司は息子と客を交互に睨みつける。俺に理解できない話を勝手に進めるな、とでも言いたげな反応に、しかし漣は構うことなく客人の切れ長の目をただ見据える。
「ど……どういうことだ!? お前、大学生にもなって人様の家の壁に落書きを!? ふざけるな! 一体どういうつもりだ漣ッ!」
問題はそこじゃないんだよ。そう皮肉を返したくなるのを漣は必死に堪える。落書きなど、もはや問題にならない程のことをあなたの息子は仕出かしてしまったんだ。
「一連の事件のことは、耳に入っていた?」
嶋野の問いに、漣は小さく顎を引く。
「そう……じゃあ、その現場と、君がグラフティを残した場所がいちいち一致していたことにも、当然、気付いていた」
「気付いていました」
すると嶋野は、漣を見据える目をす、と細める。先程、父に向けた絶対零度のそれとは違う、ほのかな憐憫を含んだ眼差しは、それでもなお漣の心を容赦なく抉る。
「ギフト、もしくは、ギフテッドという単語を耳にしたことは?」
ごく、と漣は喉を鳴らす。
やはり、この人は全てを知っている。その上で、今の問いを肯定するということは、つまり。
わかっている。それでも、俺は。
「あります。……ありました。その上で俺は、あれを描き続けたんです」
だから何の話だ、と隣で父が喚く。いや、それを言えばもうずっと父は何かを喚き続けていて、しかし、漣の耳には言葉として入ってこない。にもかかわらず嶋野の言葉だけはやけに明瞭に響く。彼が漣の返答についた溜息も、だから、やけにはっきりと耳に届いた。
「……なるほど」
それから嶋野は何かを考え込むように目を閉じる。やけに長い睫毛だなと思ったその時、ふとその像が滲んで、さらに今度は熱いものが漣の膝を濡らす。
「え……」
拾ってみると、それはコンタクトではなく雫だった。しかも、拾ったそばから次から次へと手のひらに落ちてくる。隣で父が「何を泣いてるんだ男のくせに!」と怒鳴り、そこでようやく漣は、自分が泣いていることに気付いた。
その気付きが、それまで辛うじて押さえ込んだ漣の何かを一気に溢れさせる。
ごめんなさい。
謝って済む問題でないことはわかっていて、それでも。
「ごめ、ごめんなさい、っ、本当に、俺、ぜんぶ、わかってて……でもっ、」
この手が奪った命。
この手が奪った誰かの人生。
もう二度と取り戻すことのできない、その全てに。
「ごめ……なさ、っ、あ……あああ、ああああ……!」
「泣くな! そもそもお前が悪いんだろうが! 人様のものを勝手に汚して! 男なら、自分で仕出かしたことは黙って受け入れろ!」
「お父様」
ふと、嶋野の声が挟まれる。
「少し、言葉を控えて頂けますか」
柔らかな、しかし有無を言わせない声色に、将司はひたりと口を噤む。そんな父の不可解な反応に違和感は覚えても、今の漣にはそれを反芻する余裕などない。これまで必死に目を逸らし、胸の奥に押し込んできた罪悪感。それが、決壊したダムのように溢れて、流れて、どうしようもなかった。
「漣くん」
やがて嶋野は、ふたたび漣の名を呼ぶ。父に対する時とは打って変わり、同情すら感じさせる声。
「君の痛みはよくわかります。ただ、その上で落ち着いて聞いてもらいたいことがあります。あなたの今後の人生に関わる大事なお話です。いいですね?」
「……え?」
「実のところ君には、まだ引き返す余地が残されています。詳細は伏せますが、少なくとも、一連の事件によって君が何らかの罪に問われることはありません」
「は……?」
どういうことだ。あれだけの人命を奪っておいて――その罪を漣本人も認めていて、なお、罪に問われない、とは。
「で、でも俺は、その、人を、」
「ええ、その件も含めて全てを忘れ、これまでと変わらない日常を過ごすことができる、ということです。ただし、それには一つだけ条件が課せられます」
そして嶋野は、右手の人差し指をおもむろに立てる。
「両腕の機能の一部を、外科手術により永久的に剥奪することです」
「手術で・・・腕の機能を?」
真っ先に反応したのは、そこは自らも外科医である父、将司だった。
「どういうことです。確かに、落書きに関しては息子に然るべき償いをさせるべきだとは思います。ただ……父親としてこのようなことを口にするのは憚られますが、その……それだけのことで腕の機能を奪われるのは、いささか不釣り合いが過ぎませんか」
漣にしてみれば周回遅れの指摘。さすがに、そろそろ全てを明かすべきだろうか。だが、明かせば間違いなく傷つけてしまう。父だけでなく、キッチンで不安そうにこちらを見守る母のことも。
それでも、明かすべきなのだろう。
腕の機能を奪われるとなれば、医師としての進路も相当限定されてしまう。程度によっては、医師への道それ自体を諦めざるをえなくなる。それは、海江田家全体の問題でもあるからだ。ただ……話したところで父は許すだろうか。医師の卵として許されざる行為を仕出かした息子を、なお跡取りとして認めてくれるだろうか。
いや、それ以前に。
そんな人生に漣は耐えられるだろうか。おそらく嶋野の目的は、漣の人生から創作を奪うことだ。外科的に腕の機能を奪いさえすれば、それは充分可能だろう。ただ――
「選択肢は、実はもう一つ用意されています」
言いながら嶋野は、今度は中指を立てる。
「腕はそのまま。ただし、我々藝術協会が持つ施設に移り、そこで我々の監視下のもと暮らして頂く。残念ながら移動の自由は制限されてしまいますが、代わりに、存分に創作活動に打ち込むことができる」
「は……」
「な!?」
漣と将司、親子の間の抜けた声が重なる。先に言葉を続けたのは、今度も将司の方だった。
「移動の制限だと!? たかが……ああ、ここは、あえてたかがと言わせてもらう。たかが落書きごときで、なぜそんな、囚人みたいな扱いを――」
「たかが落書き、じゃないんだよ父さん」
「なに!?」
振り返った将司はすでに目が血走り、威嚇するように歯を剥いている。こんなにも感情をむき出しにした父は久しぶりに見るなと漣は思う。最後に見たのは、そう、まだ漣が中学の頃。美術科のある高校に進学したいと、勇を鼓して切り出した時だった。
あの頃はまだ漣も小さく、父の激しい怒りに怯えるしかなかった。でも今は――
「俺の絵はね、父さん、よく聞いて……死ぬんだ。絵を見ただけで。理屈や原理は、正直、俺にもよくわからない。ただ、事実なんだよ。馬鹿馬鹿しいって思われるだろうけど、それでも、ここ最近のガス漏れ事故とされる事件は、全部、その落書きのせいだったんだ」
「な……にを、言ってるんだ」
案の定、将司は途方に暮れた顔をする。この期に及んで冗談を言う息子に、怒りを通り越して呆れているのかもしれない。が、かくいう漣自身、詳しい原理は何も知らされていないのだ。ただ状況が、それ以外の可能性を許さないのは事実で。
いっそ、全てが悪い冗談だったなら。
「ギフト、と我々は呼んでいます」
強張る空気を宥めるように、やんわりと、嶋野は言葉を挟む。耳朶を撫でるような柔らかなテノール。
「喜びや悲しみ、怒り、敵愾心……そのような効果を鑑賞者に与えてしまうアートが、秘匿されてはいますが、この世界には数多く存在します。そのようなアートが持つ効果を、ギフト。そして……そうしたアートを生み出す才能を与えられたアーティストを、我々は、ギフテッド、と呼称し保護下に置いています」
「……ギフテッド?」
おうむ返しに将司は呟く。初めて触れる単語と概念に混乱しているのだろう。
「ええ。そして漣くんは、中でも最も希少で、かつ危険と目される〝死〟のギフトの保持者であることが判明しています」
「馬鹿馬鹿しい!」
吐き捨てると、将司はうんざり顔で腕を組む。
「さっきから聞いていれば、漫画みたいな妄想をべらべらと……あ、いや失敬、とりあえず、落書きの件は息子に謝罪させます。必要なら賠償金の支払いにも応じましょう。ただ、腕の機能を差し出せというのはいくら何でも。これは、いずれ、人の命を預かることになる人間だ。それなのに、腕が利かないのではどうにも――」
「妄想ではありませんよ」
「……は?」
「少なくともあなたは、その力をすでに体感しておられる」
不意に嶋野はソファを立つと、ローテーブルを回り込み、将司の前に立つ。見ると、将司は明らかに嶋野に怯えている。どうにか平静を装っているらしいが、その横顔には明らかに怯えの色が浮かんでいる。
一方の嶋野は、相変わらず不敵な顔で将司を見下ろしている。やがて、右手を軽く腰に当てると、もう一方の腕を、将司の掛けるソファの背凭れにどん、と突いた。
ほとんど鼻先が触れ合う距離で、気まずそうに目を逸らす将司とは裏腹に、嶋野はまっすぐ相手を見据える。
「本来、あなたは大変強固な自尊心の持ち主だ。得体の知れない客人の、このような無礼な振る舞いを見過ごすことのできる人間では絶対にない。……にもかかわらず、あなたは私をここから追い出すことができない。なぜです」
「そ、れは……」
「これまでもそうです。漣くんとの話し合いの最中……いや、それ以前から、あなたは、私を追い出そうと何度も思い立ったはずです。実際、居住者のあなたが出て行くよう命じれば、私はここを出て行かざるをえない。無理に居座れば、不法占拠に当たりますからね。にもかかわらず、私を追い出そうとしなかったのはなぜです」
「そ、その……できるわけがないでしょう。あ、あなたのような御方を、そんな」
「そう、それがギフトの力です」
「えっ」
驚いたように向き直る将司に、嶋野はにっこりと微笑む。
「実を言いますと、私もまたギフテッドの一人なのです。私が与えられたギフトは〝権威〟。私の絵を目にした者は、否応なく私を権威ある存在として仰がざるをえなくなる」
「絵? ……ま、まさか、あの、名刺の殴り書きが、」
「ドローイング、です。たとえ一本のラインでも、何かしらの輪郭を取ればそれは既にアートなのですよ。そして……あなたは賢い方なので、すぐにご理解頂けるはずです。このような力を野放しにすれば、社会にとって、どれほどの脅威になりえるか。例えば、私がその気になりさえすれば、この国すら容易に牛耳ることができる」
ひゅっ、と将司が大きく息を呑む。それが合図だったかのように嶋野は上体を起こすと、何事もなかったように元の席に座り直し、コーヒーを啜る。
そういえば、今日の父は終始おかしかった。ほとんど不審者同然の嶋野を家に上げたこともそうなら、そんな嶋野に、いちいち丁寧すぎる対応を取っていたこともおかしい。普段の尊大さは隠せていなかったにせよ、だ。・・・それも、ギフトの影響だったということか。
一方の将司は、なおも呆然と天井を見上げていた。あれほど大きかったはずの父の姿が、今の漣にはやけに小さく見える。
「あれが……全部、こいつのせいだったと……」
その乾いた唇が、半開きのまま呻く。
「とんでもないことが起きているとは、感じていた……いくら病理検査を試みても、何の異常も見当たらない。なのに次々と患者が亡くなってゆく。……どうしようも、なかった。患者の遺族に、何度も、何度も頭を下げて……俺はこれから、どの面を下げて医師を続ければいい」
「と……父さん、」
「触るな人殺しがッッ!」
肩に伸ばされた息子の手を、将司は容赦なく払いのける。そのまま跳ねるようにソファを立つと、リビング脇のダイニングテーブルでのろのろと椅子を引き、力なく腰を下ろした。
そんな父の横をすり抜けるように、キッチンから母の美香が現われる。その顔は、父に負けず劣らす蒼褪めていて、今にもくずおれそうな身体を気力だけでどうにか保っているようだった。
「漣、行きなさい」
その固く強張った顔が、蒼褪めたまま優しく笑む。
「本当を言うとね、ずっと……あなたに謝りたいと思ってた。あんなに絵を描くことが好きだったあなたから、受験勉強のためと言って、無理やり絵筆を取り上げてしまった。……絵を描くことは、ずっと、あなたの一部だった。それなのに、私たちは……」
「そ、んな……いいんだよ、もう……」
むしろ、今更謝られたところで何をどうしろというのか。……そう、どうしようもなかったのだ。父が息子に医師への道を強いたのも、母がそれに従ったのも、全て、どうしようもなかった。
それ以外の結末など、誰も、想像すらしなかったのだ。
「俺、行きます」
漣の返事に、ダイニングの父は弾かれたように顔を上げる。幽鬼のように蒼褪めた顔はほとんど無表情で、もはや一切の感情を読み取ることができない。いや、きっと父自身、何を思い、何を考えればいいのか途方に暮れているのだろう。それを言えば漣自身、自分の身に起きたことは悪夢か何かだと思えてならなかった。今でも。
やがて父は、力なく項垂れ、溜息をつく。引き留める様子はない。たとえ引き留めたところで、すでに多くの人間を殺めてしまった息子に継がせる看板などあるわけがないのだ。
こんな……人殺しに。
「わかりました。そういうことなら・・・突然で恐縮ですが、このまま私の保護下に入ることをお勧めします」
「えっ? ・・・どういうことです」
すると嶋野は、口元の微笑はそのままに続ける。
「詳細は伏せますが……君は今、極めて危うい状況に置かれているのです。先程、私が示したとおり、ギフトはいくらでも悪用が叶ってしまう。今回、我々が最初に君にコンタクトできたのは、多くの幸運と、そして、多くの人間の努力の賜物だと考えて頂きたい」
「それって……水面下では、俺を狙う奴がごろごろいるって事すか」
「そういう解釈で構いません」
そして嶋野は、飲み終えたカップをそっとテーブルに戻すと、スマホを懐にしまいながらいそいそと立ち上がる。そんな嶋野につられるように、漣もまたソファを立つ。
「荷物などは後ほど、協会の人間が引き取りに伺います。また、荷物が届くまでに必要な日用品や着替え等は、協会の方で用意させて頂きます」
言い残すと、早くも嶋野は玄関へと向かう。と、ホールに出たところで、なぜか男物の革靴を手にした美海とばったり遭遇してしまう。
その美海は、漣の隣に立つ嶋野を見上げると、慌てて靴を三和土に戻した。
「私の靴が、どうかしましたか」
「えっ……あ、いえ何でも……暇だし、ちょっと磨いておこうかな、なんて」
「そうですか。ありがとうございます」
やんわり礼を言うと、さっそく嶋野は足を靴につっかける。と、途中で違和感を覚えたのか足を抜き、代わりに指を突っ込んで中から小さな紙片を取り出す。どうやら正体は、美海の電話番号やLINEのアドレスが書かれたメモらしい。こんな時でも美海は美海かと漣は呆れ、しかし、こんな日常もこれで最後なのかと今更のように胸が締め付けられる。いまいち歯車の噛み合わない家族だったが、それでも漣にとっては唯一の、愛すべき家族だったのだ。
一方の嶋野は、上がり框に腰を下ろすと、膝に置いた鞄を下敷きに、何やらメモ裏に描き込みはじめる。覗き込むと、なぜか嶋野は慌てて身を捩り、背中で手元を隠した。
「すみません、君には見せられないんです。今はまだ」
「え?」
当惑する漣をよそに、なおも嶋野はさらさらとペンを動かす。そのまま三十秒ほど続けたあとで、ふとペンを止め、二つ折りにしたメモを美海に差し出した。
「残念ですが、立場上このメモを受け取ることはできません。……代わりと言っては何ですが、ご自身の生き方に迷ったときは、これを見て私のことを思い出してください。ただし、あなた以外の人間に見せてはいけません」
「ど……どうも」
当惑気味にメモを受け取った美海は、瞬間、はっと顔を上げ、まっすぐに嶋野を見る。一目惚れとも違う、例えば何か、ずっと待ち焦がれた巨匠の作品にようやく会えたような目。
「残念ながら、お兄さんは病院を継ぐことができません。代わりにあなたが、ご両親の希望になってください」
「は……はいっ! あたし、が、頑張り、ますっ!」
今の今までしょぼくれていた美海の、突然の変貌に漣は面食らう。さっきの裏書きが嶋野のドローイングだったとして、これもギフトの力だろうか。確かに……その気になればいくらでも悪用できそうだ。
そんな力を、俺も。
見ると嶋野が、玄関脇のステンドグラスを眩しそうに見上げている。あれは確か、母が趣味で設置させた特注品だ。いや、それを言えば母は昔からデザインにうるさく、今の家を建てる時も設計士に細かく注文を入れていたことを思い出す。
「ああ、母の趣味です。ベル・エポック……でしたっけ」
「それは、パリが最も美しかった時代を指す言葉ですね。当時のパリを象徴するアートの潮流の一つがアール・ヌーヴォー。この作者であるアルフォンス・ミュシャは、その代表的なアーティストです。……なるほど、君のアートに対するセンスは、お母様によって養われたのですね」
ふと視線を感じて振り返ると、いつしか玄関ホールに現れた母が、今にも泣き出しそうな目でじっと息子を見つめていた。父の姿は、やはりどこにもない。
「辛いこともあったでしょう。でも、ここでの暮らしは間違いなく、あなたにとっての美しい時代だったのだろうと思います」
「はい」
母への遠慮でも何でもなく、心から同意し、頷く。
「行きましょうか」
「……はい」
もう二度と、この家に戻ることはないだろう。そう胸の内では予感しつつ、それでも強いてにこやかに笑むと、漣は母に、美海に、二十年間暮らした家に告げた。
「じゃ、いってきます」
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