なぜ生きる

1/1
前へ
/1ページ
次へ

なぜ生きる

いずくとも   身をやるかたの 知られねば    憂しと見つつも ながらうるかな (『紫式部集』より) 人生を、「憂し」と思いながら 生き永らえるしかなかった、と 私の物語を書いた紫式部は言います。 「こんな苦しい人生、なぜ生きる?」 「何の為に産まれてきたのだろう。」 私の人生は、この問の答えを探す旅だったのだと思うのです。 私は、匂の宮様、薫の君様という ふたりの貴公子に愛されました。 それは、夢のような時間でございました。 では、私は幸せだったでしょうか? 一時は夢に酔い、幸せを感じましたが、 しかしそれは、本当の幸せではありませんでした。 むしろ、悩み苦しむことの方が 多かったのです。 私を愛して下さったおふたりの貴公子。 お二方は、私に何を求めたのでしょう? 匂の宮様は何が一番欲しかったのでしょうか。 やがて東宮、帝になられる御方。 そのことが一番大切なのなら、もっと自重なさったでありましょうに。 何故あのような無茶とも思えるやり方で私をお求めになったのでしょう。 そして、薫の君様も… 世を儚んで出家なさりたいと、勤行に励まれたり勉強なされたりするのに、 御自分より身分の軽い者を何の疑問もなく蔑まれる… 世の習いとはいえ、お釈迦様は身分の区別はなさっていないはず… 私の父、八の宮様もそうでしたが… このようなことを考えるのは、 女ゆえの性(さが)でしょうか。 人は私を「浮舟」と呼びます。 それは、私が川に浮かぶ浮舟のように、 頼りなくゆらゆらとただ流されて行く日々を送る様から付けられた名なのです。 本当の名前は分かりません。 私は父から認められなかった娘だからです。 私の父は、桐壷帝の第八皇子八の宮。 母は八の宮の北の方の姪で、 中将の君という女房でした。 北の方のご実家は大臣家。 母も元は良い家柄の娘だったのでしょうが、実家が落ちぶれたのか女房となって仕えていたのです。 父は、一時は春宮(皇太子)となるべく担がれたことがあったそうですが、光る君との政争に敗れた後は宇治に引きこもり、俗世を離れるように慎ましく暮らしていたのでした。 父八の宮は、後に俗聖と呼ばれるほど清廉な方でしたが、北の方を亡くした後、淋しさゆえか母、中将の君と結ばれ、私が産まれました。 しかしその事を後悔し、母と私を追い出したのです。 なぜ、そのような酷い仕打ちをされたのでしょうか。 下賤の者と交わり子を為したことを恥じておられたのでしょうか。 私と母をそのように蔑んで恥じることのない父。 これが、“俗聖”と呼ばれる方のなさることでしょうか。上つ方とは、そのようなものなのでしょうか。 母(中将の君)は止むなく幼い私 (浮舟)を連れて常陸介の後妻となり、私は東国で育ちました。 多くの兄弟姉妹の中、一人だけ父親の違う私は、義父(常陸介)からも疎まれる存在でした。 母は尊い宮様の血を引く娘と大事にしてくれましたが、“生まれてはいけない娘”と肩身の狭い思いをして生きていくしかありませんでした。 母はそんな私を不憫と思い、晴れがましい結婚をさせたいと願っていたのでしょう。 やがて都に戻り、母は自分の一存で 左近少将という男を私の婿に決めました。 ところが、財産目当てだった左近少将は、私が常陸介の実子でないと知るや破談にし、妹に乗り換えたのでした。 義父は、実の娘の結婚を大いに喜び、私のために用意された婚儀の品々も部屋も、一切取り上げられてしまったのでした。 義父常陸介の余りの仕打ちに、母中将の君は耐えかねて、二条院で暮らす 中の君(私の腹違いの姉、大君の妹)に私を預けることにしました。 宮様の血を引きながら、 実父(八の宮)に認知されなかった為、 女房の子という低い身分に貶められ、継父(常陸介)にも疎まれ…。 東国育ちのため、京で生まれ育った姫君のように、音楽や文学の教養を身に付けることもできなかった私を、 義姉中の君の元で宮様の姫らしく仕込んで欲しい。そう思ったのかもしれません。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加