助けられなかった者

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助けられなかった者

 昼間に見ても江戸の町は"人ならざるもの"が多い。それらは神であったり妖であったりするが、大概は無害、もしくは昼間は弱くなっているようだ。それでも現代より堂々としているのは、やはり人々の思いの強さ故なのだろう。神も妖も、"人ならざるもの"たちは人々の思いが創り出す存在である、と当の付喪神が語っていたことを思い出し、雪治は口元に弧を描く。  子どもたちの遊ぶ声、店の呼び込みの声、籠屋の掛け声、裏長屋の方から聞こえる女性たちの井戸端会議の声、それらに混ざって聞こえる"人ならざるもの"の声。賑やかな町だったのだな、と雪治は目を細めてそっと木刀に触れた。  「これだけ居るなら、俺が助けられてない人もいるんだろうな」  天晴大御神からの説明もあれで全てというわけではなさそうだった。自分が遣わされる場所で助ける人々には何か神々なりの基準があるのだろうことは雪治も察していた。関わった人々は雪治へ英雄を見る目を向けるが、その実救えた数はかなり少ない。勝手に他のところへ行って助けようとすれば邪魔が入る可能性さえ感じる。中途半端な英雄だ、と目を伏せ雪治は独りごつ。  その瞬間、甲高い悲鳴が辺りに響いた。思わず雪治が駆けつけると既に人集りができていて、その中心には首に何かで締め付けられたような痕がついている女性の遺体と、発見者だろう町娘がいた。人間の遺体を棺桶と病室以外で見るのは初めてで雪治は酷く動揺したが、遺体が微かに纏う妖の気配は見逃さない。まさに彼女は、雪治が助けられなかった誰かだった。  虫の湧いた遺体を見るのは初めてな現代人の雪治は吐き気を覚えつつ、しかしその妖の気配について観察しようとしていた。だが雪治の髷のない頭と質のいい着物の釣り合わなさは江戸では不審者だ。同心を呼びに行った声を聞き、神の補正があるとは言え捕まるリスクを避けようと、念のため雪治は気配を消してその場を離れる。  「あの気配さっき……そうか、お夏さんの……」  雪治は遺体の纏っていた妖の気配と団子屋のお夏に纏わりついていた気配が同じであることに気がついた。それはつまり、雪治が本体を見つけられなければお夏も彼女と同じ結末を辿るということに他ならない。雪治は下唇を噛んだ。  遺体に残っていた痕は6センチくらいで、ちょうど平ぐけ帯程度の幅だった。雪治は本体が平ぐけ帯だと推察するが、独身女性のお夏が男性用である帯を所持しているだろうかと首を傾げる。とはいえ他に同じような幅の物は思い当たらず眉を寄せた。あるとしたらこれから誰かに贈るための物だろうか。  考えながら歩いているうちに清之助とおりんのいる長屋を通り過ぎそうになった雪治を、日中働いている店からちょうど出てきた清之助が呼び止める。  「おう雪治、難しい顔してどこ行くんだ。おりんのとこに顔出してやれ」  「あ……清之助さん。考え事をしていました。お邪魔してきます」  清之助のおかげで現在地に気がついた雪治は軽く頭を下げて裏長屋へ入り、おりんの家へ向かう。おりんは仕事中なのか、辺りに三味線の音が響いている。雪治は仕事の邪魔をしないよう、おりんの家のすぐ傍で戸に隠れて座り込む。  最近入ったばかりなのか苦戦している門下の頼りない音がぺんっぺんっと聞こえては、兄弟子たちが自慢げにベンベンと音を奏でてみせ、そのやり取りに笑みをこぼしながら優しく正しい演奏法を教えるおりんの声がする。そうして見本にとおりんが弾くと誰より力強く美しい音が響いた。  和気藹々とした話し声とおりんの三味線の音色が、遺体を見てから無意識に緊張していた雪治の心を解していく。雪治は知らぬ間に詰まらせていた息を吐いて目を閉じると、三味線の音に聞き入るうちに眠りについてしまった。精神的な疲労が出たのか、仕事を終えた出てきたおりんと門下が驚いて声を上げるまで、雪治は少しも起きなかった。  
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