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雅から聞かされた話に驚くことしかできなかった。
仕事の事。
小説家でデビュー作だという話の題名は、本を読まない俺でも聞いたことのあるものだった。
この部屋はデビューしてしばらくしてから借りた事。
その小説のおかげで家賃や自分の生活を賄えるだけの収入がある事。
自分名義の小説は書けていないけれど小説家としてちゃんと仕事をしていること。
俺と同棲していた時も日中はこの部屋で仕事をしていた事。
事務員だと嘘をついていた事。
驚きはしたけれど〈ああ、そうなんだ〉と言う程度で、だからと言って雅の見方が何か変わるわけでは無い。
むしろ、文章を操る職業なのに自分のこととなると口下手な雅を好ましく思うのは惚れた弱みだろうか?
それよりも衝撃的だったのは学生時代の話。
別れた相手に傷付けられたせいで何をどこまですれば相手が満足してくれるのかがわからない事。
良かれと思って尽くせば尽くすほど愛想を尽かされる事。
トラブルが実家にまで伝わり絶縁状態な事。
そして、トラブルのせいでドアチェーンが無いと不安な事。
色々と当てはまる事があった。
やり過ぎだと思うほど尽くしてくれるのは嬉しいけれど、時々鬼気迫るものがありもう少し力を抜けばいいのにと思った事があった。
自分でも忘れてしまっているような言葉を漏らさず覚えており、どこまでも知り尽くされているような喜びと後ろめたさ。
付き合いが長い割に実家の話を聞いた事がなかった理由。
ただ、ドアチェーンの事だけは理解できなかった。さっきもこの家に入った時にしていた行動だったけれど、一緒に暮らしていた時にそんな行動を取る雅を見たことはなかった。
「一緒に住んでた時、チェーン出来なかったのも不安だった?」
それも出て行った理由かと思い聞いてみる。1つでも〈俺〉じゃ無い理由が有って欲しかったのだ。
だけどその願いは雅が首を横に振ったことにより打ち砕かれる。
「怖くなかったから」
そして告げられた言葉。
「あの部屋にいた時はチェーンの事なんて忘れてた。
なんでだろうね、僕も友達に指摘されるまで気付いてなかった」
時折ワインを舐めるように飲みながら言葉を続ける。
「あそこにいれば安心できたんだ。
あそこで待ってれば帰ってくるって分かってたから。
でもさ、帰りが遅くなるたびに僕の居場所じゃないんだ、僕は居たら駄目なんだって言われてるみたいで」
雅の言葉が胸に刺さる。
「話をして駄目ならじゃあねって出てくるつもりだったんだ。
でも、それが無理なら出てけって言われる前に自分からいなくなろうって」
無意識なのかもしれない、ポロポロとこぼれ落ちる涙を拭くことなく言葉を続ける雅が愛おしくて、こんなことを言わせてしまった自分が情けなくて、その涙を何とかしたくて思わず抱き寄せてしまった。
○○○
「ごめんね、雅」
突然抱き寄せられて耳元で囁かれた言葉。僕の大好きな声と、大好きな匂い。
「そんな風に思ってるなんて全然気付いてなくて、雅がいつか心を開いてなんでも話せるようになってくれるまで待てばいいと思ってた」
僕を抱き寄せたまま彼が言い訳を始める。
「そんなこと、知らない」
「だよね、言ったことないし」
「ご飯も」
「食べたかった。
雅のご飯じゃないと美味しくない」
「肉とか魚とか。
魚の骨が嫌だし野菜なんて食べ物じゃないって」
「それは言葉のあや。魚より肉の方が好きだし魚の骨は正直苦手だ。
野菜は食べ物じゃない、じゃなくてメインじゃないって言いたかっただけ」
ボソボソと告げられる事実。
喧嘩した時以外で彼がこんなにも話すのは珍しい。
「弁当だって」
「雅と同じ弁当で良かったんだ。
俺のだけ品数増やさなくていい」
「作らなくていいって」
「弁当箱洗うためにって遅くなっても寝ずに待ってただろ?」
「じゃあ、肉とか魚とか」
「それは、雅に食べさせたかったから。
会わないうちに痩せただろ?」
「それ、いつと比べてる?」
「え?
出て行った頃はもう少し肉あったよ?」
身体を重ねる事がなくなってから随分経っていたのに、それなのに出て行った頃はってどういう事だろう?
「雅さ、自分のことどう思ってるのかなんとなく話聞いてわかったけど1回寝ると起きないよ?
それって知ってるの、俺だけみたいだね」
驚いて顔を上げるとニヤけた彼の顔があった。
「雅も知らない雅の秘密だ」
そして駄目押しの言葉を告げる。
僕の知らない僕の秘密。
確かにそうだろう。
あの一見以来チェーンを掛けていても不安感が拭えず常に眠りは浅かったはずだ。
「もしかしたら俺が帰った時に起きてた時もあったかもって思ってたけど、ちゃんと寝てたよね?」
そう言われて頷くことしかできなかった。確かに〈先に寝ていて欲しい〉と言われて以来、先にベッドに入り先に寝ていた。
そんな事まで従順に守ってしまっていたのか、それとも本当に安心しきっていたのか…。
きっとその両方なのだろう。
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「もしかしたら俺が帰った時に起きてた時もあったかもって思ってたけど、ちゃんと寝てたよね?」
俺の言葉に雅が顔を真っ赤にして頷きそのまま顔を上げてくれない。
それならば俺がどれだけ雅に癒されていたのか言ってやろうと悪戯心が起きてしまった。
「雅さ、俺がベッドに入ると擦り寄ってきてる自覚もなかったんだ?」
その言葉に雅がもう一度顔を上げる。
けれど俺のニヤついた顔を見てまた俯いてしまった。
でもまだ止める気はない。
「俺も疲れてたから雅のこと堪能したら離れてたけど、だから太ったとか痩せたとかわかるよ」
「堪能って、僕何かした?」
何を想像しているのか、怯える雅も可愛い。
「何想像してるのかわからないけど、抱きしめて、キスして、それだけで満足だったよ。
言っただろ?雅がいてくれるだけで頑張れたって」
本心だった。
毎晩擦り寄ってくる雅が可愛くて、寝ぼけながらもキスに応えてくれる雅が愛おしくて。
だから雅が色々と誤解して思い詰めていたことに全く気付いてなかったんだ。
「もっとちゃんと伝えないといけなかったんだよな」
今更ながら自戒の念に駆られる。
俺がもっとちゃんと言葉にしていれば防ぐことの出来ることばかりだったのだ。
「ごめん」
謝ることしかできなかった。
○○○
彼の胸に頭を預けたまま彼の言葉を反芻する。
眠ったままの僕は彼に擦り寄り、彼とキスを交わしていただなんて。しかも彼の言い方だと可愛らしい挨拶のようなキスではなさそうだ。
僕の知らない間に彼と触れ合っていた〈眠ったままの僕〉にヤキモチを妬いている自分に呆れはするものの、知っていたらこんなことにならなかったのにと自分の寝穢さと思い込みの強さ?従順さ?に頭を抱えたくなる。
「もっとちゃんと伝えないといけなかったんだよな」
それまで揶揄うようだった彼の声色が変わりポツリと告げられた言葉。
「ごめん」
謝るのは僕の方なのに。
「狡い」
それでも素直になれない僕は言葉を弄んでしまう。
「僕の知らないところで、僕じゃない僕と仲良くして。
僕じゃなくて〈眠ったままの僕〉が良かったの?」
なんで素直に僕が起きてる時にもっと一緒に過ごしたかったと言えないんだろう。
僕の身体を心配してくれるのは嬉しいけれど、それならば週に数度でいいから起きていることを許して欲しかったと言えないんだろう。
素直になる事ができなくなったのはいつからだったのだろう。
「違う。
雅じゃない雅なんていないよ。
寝てても起きてても、笑ってても泣いてても、怒ってても何しても全部雅だから」
素直になれない僕に彼が優しく言う。
「こうやって酔っ払って素直になんでも話すのも雅だし、一緒に住んでるのに言葉を飲み込むのも全部雅だよ」
どうしてこんなにも優しいのだろう。
勝手に勘違いして、勝手に家を飛び出して。
連絡手段も全て絶っておいて、それなのに縋り付くように彼の連絡を待つだけだった僕にどうしてここまで優しくできるのだろう?
「そんなの、好きだからに決まってるだろ?」
考えながら言葉に出していたのだろうか、彼が呆れたように言い放つ。
「そんなとこも含めて好きだから仕方ないじゃん。
あ、俺かなり重いと思うよ?
今更別れたいって言われても雅のこと、手放す気はないから」
挙句に爽やかに宣言されてしまった。
「とりあえず明日にでも俺の実家に行こうか。弟に謝らせるし、うちの親も雅に会いたがってるし」
彼の言葉に衝撃を受けてばかりで言い返すことができないまま話がどんどん進んでいく。
「部屋は、どうする?
この部屋、正直雅らしくて解約するとか勿体無いよね。
俺、こっちに引っ越そうか?
ここなら2人でも平気でしょ?」
挙句にそんな事まで言い出す。
「あ、やべ。
俺、急いで飛び出してきたから色々そのままだ。
実家行く前に1回部屋寄ったほうがいいかな」
実家に行くのは決定なのだろうか?
「ここからだと会社、遠くなるから駄目だよ」
ただでさえ忙しくて大変なのに、僕に気を使う必要はない。
ここにきても素直になれない僕はそうやって逃げようとしてしまう。
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「ここからだと会社、遠くなるから駄目だよ」
素直に頷くとは思わなかったけれど、案の定否定の言葉を雅が口にする。
「だからさ、もう手放す気はないって言ったよね?
会社なら車で通勤すればかえって早いんじゃない?」
雅がそのつもりなら全て論破するだけだ。
「免許、持ってるの?」
「持ってるよ。
仕事で車使うこともあるし」
「知らなかった」
雅が驚くけれど、知り合ってすぐの頃に閉じた空間に2人きりになるのは苦手だと言われドライブデートは諦めたのだ。もちろんカラオケも行ったことはない。
ホテルは…そういう関係になった時にはお互いに打ち解けていたとは思っていたけれど、さっきの話を聞いてしまうと無理をさせていたのかもしれない。
自分の部屋に人を入れたがらないのと同様に、俺の部屋に来ることを遠慮していたのもそのせいもあったのだろう。
そう考えるとこの部屋にビールを用意しておくような相手がいた事に、その相手に嫉妬してしまう俺は心が狭いのだろうか…。
「じゃあさ、今度ドライブデートしようか?
で、そのついでに俺の荷物こっちに運ぶとかどう?」
もう誰にも渡す気はないのだ。
押して押して、絆された雅を囲い込んでしまおう。
「でも、2人だと狭いよ」
「俺の部屋より広いと思うけど?」
「職場、遠くなる」
「それは車で解決する」
「車は?」
「実家にほとんど使ってないのがあるからしばらくはそれ借りれると思うよ?
うん、明日それも聞いてこようか」
外堀をしっかり埋めて逃げ場を無くしてしまおう。
「車、2人で選ぼうな。
どんなのがいい?」
「ベッド、小さいから寝られないよ」
「うちのと入れ替える?
寝心地は悪くないみたいだし」
また悪戯心が出てしまった。
と言ってもうちのベッドだって俺がゆったり寝れるようにと用意したセミダブルだから大きいわけではない。
「あ、でもこの部屋の雰囲気と合わせて買い換える?」
無駄遣いをするところを見たことのない雅が否定するのを見越してわざと言ってみる。
「そんなの勿体無い。
うちのベッド、広いし」
さっきと言っている事が違うのは俺がここに移るのを阻止する理由を探してのことだろう。
うちに有ったレンジをオーブンレンジに勝手に買い替えたことを叱られた時を思い出してニヤリとしてしまった。
よし、これで言質を取ったも同じだ。
「じゃあ俺の部屋の家具は処分しちゃおうか」
俺の言葉に〈しまった〉という顔をした雅だったけれど、どうして広いベッドなのかが気になって仕方がない俺は心が狭いのだろうか?
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