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 さらさら さらさら    音を立てて何かがこぼれ落ちて行く。  さらさら さらさら  大切なものだったはずなのに。  手の中に留めておこうともがいても、指の間からさらさらとこぼれ落ちるもの。  さらさら さらさら  大切なものはいつもこぼれ落ちて行く。  さらさら さらさら  違和感を感じたのはいつが最初だったのだろう。気がついた時には遅かったのかもしれない。  家で食事をする回数が減って。  残業が増えて。  帰宅時間が日に日に遅くなって。  休日出勤が増えて。  出張が増えて。  それに比例して触れ合うことが減っていった。  身体を重ねる回数が減っていく。  会話が減っていく。  今まで、ソファーに座る時は必ずどこかしら触れていたのに2人の間に隙間ができた。  そして、挨拶がわりのキスがなくなり挨拶すら無くなった。  請われて始めた同居生活だったはずなのに自分の居場所が無くなっていく。 「話をしたいんだけど」  彼はそう告げた僕を一瞥する。  その目には苛立ちしか感じられない。 「今は無理だ。帰ってからな」  冷たく言い放ち、仕事に行くために部屋を出て行ってしまった。  これが最後のチャンスだったのに。 「行ってきますも言わなくなったって、気づいてないんだろうな」  閉じられたドアに向かって呟く自分が虚しい。 〈帰ってから〉って、ここのところ僕が起きている時間に帰ってきた試しなんてないくせに。 〈仕事が忙しい〉〈残業だった〉口にする言葉が嘘だって僕が気づいてないと本気で思ってるのならおめでたい男だ。  さらさら さらさら    音を立てて何かがこぼれ落ちて行く。  さらさら さらさら  大切なものだったはずなのに。  手の中に留めておこうともがいても指の間からさらさらとこぼれ落ちるもの。  さらさら さらさら  大切なものはいつもこぼれ落ちて行く……。  さらさら さらさら  僕は指に力を込めるのをやめ、指の間からさらさらとこぼれ落ちていくものをただただ見つめるのだった。  さらさら さらさら  相手に話す気がないのなら、この部屋にいる意味がない。  彼がいない間にまとめておいた荷物を運び出す、と言っても大きなやスーツケースがひとつだけ。  彼は気付いていない。  この部屋には必要最低限のものしか置いてなかったことに。  衣類は定期的に入れ替えていたし、生活用品は歯ブラシと髭剃りくらいしか置いてない。  日常使いの用品は元からここにあったというか、僕が同居を受け入れるしか無いと思うように彼が用意した物ばかりだ。  揃いの食器や揃いのスリッパ、パジャマ。  僕のものであって僕のものでは無い物たちは彼が好きにすればいい。  意識して私物を増やさなかったのは何か予感があったから……でもないけど、結果オーライ。  自分の痕跡が残っていないか一通り確認し、キーケースから鍵を外す。 〈私物が残っていたら捨ててください〉  キッチンのテーブルの上にそう書いたメモだけ残しておく。  スーツケースを持って部屋から出て施錠をし、ドアポストに鍵を入れる。 【カチャン】と音を立てて落ちた鍵は僕たちの終わりの音なんだろう。 〈鍵はポストに入れておきます〉一言メッセージを送って終了。  あっけない終わりだと思わないでもないけれど、こんな関係を続けていく気力は僕にはない。 「さて、と。出勤出勤」  職場兼自宅に向かってスーツケースを転がす。  彼には職場も自宅も教えてないのでこちらが気をつければこの先会うこともないだろう。  いつもはボロが出ないよう通勤ラッシュの時間帯に出るようにしていたが、今日はスーツケースのことを考慮して通勤をずらした。  元々は同じ時間に出勤していたのに彼がわざとずらす様になったのはいつからだったかと思い出す事はもうしない。  終わった事なんだから。  ラッシュを過ぎた電車は座れない程度には混んでいても、スーツケースが邪魔になることはなかった。  彼の家から6つ目の駅。  彼の会社とは逆方向に進む電車。  もう通ることのないだろう沿線を見ながらちょっとだけ気が楽になっている自分に気づいて苦笑する。  疲れてたんだな……。  不毛な関係は嫌いだ。
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