11 身

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11 身

 翌日、社に出ることもなく朝から部屋に閉じ篭もり、そんな妄想に責め苛まれていた私は、昼過ぎ、ついにいたたまれなくなって外に飛びだした。ふらふらと街をさ迷い歩くうち、いつしか私は、昨日と同じ本屋に入っていた。手には――おそらくあの後店員が補充したのだろう――昨日と同じ薄っぺらなジョージ・ブールの伝記本を握りしめていた。  すると―― 「あなたもそれにお気付きになられたのですね?」  上品な身なりの老人が私に声をかけてきた。  その声に、ぎょっとして私は振り返った。私の目の中に映じた老人は、痩せて、どこか悲しげな表情をしていた。 「昨日、あなたがその本を求められたとき、私は『ああ、この人も気がつかれたのだな』と、そう思いましたよ」  静かな声で老人がいう。 「では、あなたも?」  私が答えた。そのとき私には不思議とその老人の言葉を訝しむ気持ちが湧いてこなかった。なぜなら、この私でさえその本質に気がついてしまったのだから……。  老人の目を見つめると、穏やかに私はいった。 「この<現象>は、いったい何時から始まったものなのでしょう?」 「さあ、私にもそれは……。けれども一月ほど前に誰かがスイッチを入れたとき、この世界が走りだした(ビギャン・トゥ・ラン)可能性はあります」 「そんな!」  私が声をわずかに荒らげると、老人が静かに言葉を続けた。 「あなたがお考えになっていることは想像がつきますよ。磁性体や超伝導体、あるいはある種の錯塩が特定温度を境にガラリとその性質を変えてしまうように、私たちの住むこの宇宙全体の性質が、何らかのきっかけでそのように変わってしまったのだと思われているのでしょう」  私は自分の中で漠然と発酵しかけていた考えを老人に突かれて、ハッとした。 「あるいは、法則の違う平行宇宙に、私たち全員が移行したのかもしれない」  老人がいう。  「あるいは私たちの宇宙の基本定数のひとつ、または幾つかが、    非連続的に変化したのでは?」    「あるいは、量子力学でいうところの波束の収縮という仮想      事象のつけが、いま私たちの宇宙に返されたとでも?」     「あるいは?」    「あるいは?」   「あるいは?」  「あるいは?」 「もう、やめてください!」  私が叫んだ。 「それらはみな証明のしようがない事柄です。ここでどんな推論をしてみたところで、それが何になるというのです」  すると老人はまっすぐに私の目を見つめ返すと、こう語った。 「あなたは、以前私たちがその中に存在していた、あるいは、存在していたと信じていた世界を司っていた法則が唯一絶対のものだと信じていらっしゃる。だから、この、私たちにとってはまったく新しい法則に支配された世界が気にいらないのでしょう」  私が首を振る。老人は続けた。 「でも、ちょっと考え直してみて下さい。どうしてこの世界より、以前私たちがいた世界の方がリアルだと、あなたには断言できるのですか? もし私たちが初めからこの世界に暮らしていたとしたら? あるいは、以前この世界に暮らしていた住人が、突然、私たちの前に暮らしていた世界に移行させられたとしたら? そんな可能性を少しでも考えてみた後でも、あなたは、私たちの以前いた世界こそ正常で、この世界が異常なのだといい切ることができますかな?」  私は老人の話術に釣り込まれた。 「あなたは一体何者なんです?」  そんな自分を救いだすように私は老人に問いただした。だが、私のその質問は老人に無視された。 「各国政府もいずれ自国民に事態を告げねばならぬときが来るでしょう」  悲げな顔に限りなく優しい笑みを浮かべて、 「しかしここは、あなたにとって必ずしも悪い世界ではないと、私には思えるのです。少なくとも、ひとつひとつの行動に対する結果がはっきりと予想できるのですから……」  老人のその言葉に、私のなかで何かが弾けた。そうだ、もしかすると! 「あの、ひとつ質問が?」私は叫んだ。  だがそのときにはもう、老人の姿は本屋の何処にも見当らなかった。
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