13 否

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13 否

 そのとき、私の安アパートの呼び鈴が鳴った。 「あなたの家(うち)の前まで来たら、品の良いおじいさんから、こんなもの渡してくれって頼まれたわ」  ドアの向こうに立っていたのは、大きな買いもの袋を両手一杯に抱えた絵理子だった。 「ねえ、入れてくれないの?」  上目使いに、そしていささか心配そうに私を見上げる。 「ああ、じゃ、ま、入れよ」  私がいった。彼女に手渡された紙片を受け取る。 「夕食は、何を食べたい? 少し、買い込み過ぎちゃって」  彼女が台所でヤカンに火をつけた。 「しばらくやっかいになるわね。簡単に許して貰えそうにないから……」  何気なさを装って、彼女が決意のほどを表明した。 「ありがとう」  私が答えた。そして、彼女から受け取った紙片を無造作に広げた。   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  | X=0/0(不定) X=N/0(不能)   |  | あなたには、この意味がわかりますかな?|   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  私ははっとした。紙片に書かれた分数(割算)の意味に思い当たるところがあったからだ。  そう、ブール代数には確かに割算の定義はない!  とすると、もしその定義の外に抜け出すことができれば、私と絵理子はいつまでも……  あの謎の老人は、私にそう語りかけたかったのだろうか?  だが私は、ふうっと大袈裟に溜息を吐くと肩を竦め、紙片をくしゃくしゃに丸めると、屑かごに放り込んだ。 「どうしたの、難しい顔しちゃって?」 「きみが欲しいな……」 「夜までお預けにしてくれないかなぁ。私、もうくたくたで……」 「いや、いま欲しいんだ!」  そして私は絵理子を抱き締めた。<この現実に生きる彼女>を二度と離すものかと、心の奥深くで強く思いを噛み締めながら……。  だがそのとき、私には老人のくれた紙片の分数項が、実は<現象>の裏に潜み、これから私と絵理子を襲うであろうもうひとつの存在の罠に対する解答であるということに、まったく気がついてはいなかった。(了)
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