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 半月後、喪を済ませて私の安アパートを尋ねた絵理子が口にしたのは、私には全く意外な言葉だった。 「私、結婚することにしたの。母の勧めてくれた人と……」  彼女は私から目を反らさず、静かにそういい放った。 「あなたのこと、愛していなかったわけじゃないのよ。でも……」  わかるでしょう? とその続きを彼女は目で語り、わずかに首を傾げた。それは私のもっとも好んだ彼女の仕種のひとつだった。 「酒か?」  と、しばらくしてから私が答えた。 「大酒飲みとは結婚できないというんだな!」  つまり彼女はその事実を知っていたというわけだ。  彼女が私から目を反らした。 「あなたのお友だち何人かと食事に行ったことがあったでしょう。そのときに聞いたの。あなたが座を外している間に、それとなく……」  私を見上げて、 「それに、父のこともあったし。……でも、やっぱり、私は」 「わかった」  私が答えた。遠い目で彼女を見つめる。 「ありがとう。楽しかったよ」  私の脳裡を、絵理子と出会ってからの日々が走馬灯のように駆け抜けていった。 (だが、絵理子)  と私は思った。 (そんなに早く結婚が決まるということは、きみはおれと同時期に、いや、ひょっとすると、<おれと出会う前からその男と付き合いはじめていた>のかい?)と。 「ごめんなさい。……でも、あなただって、私ひとりってことないわよね、女の人」  彼女が口をすべらせた。 「あなたには感謝しています。私の方こそ、楽しい思い出をありがとう」  彼女のその言葉が何処まで真実を伝えているのか、私は知りたいとは思わなかった。何故なら、そのとき彼女が流した一粒の涙が、彼女自身、おそらく整理がつかないだろう絡み合った感情を余すところなく伝えていたからだ。  私は人差指で絵理子の頬に振れ、その大粒の涙を、彼女の目許に向かって掬い上げた。指先に付いたその涙を、私は自分の唇にそっと押しつける。そのとき、それまで私の中で混交していた<怒りと悲しみの感情>に、彼女に対する<愛おしさの感情>が付け加わった。するとその感情は、私の中で<愛おしさと怒り、愛おしさと悲しみとが奇妙に入り混じったもの>へと変化していった。 「さよなら」  最後にそれだけを口にすると、絵理子は私の許を去った。
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