とある椿の場合

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とある椿の場合

 日の出と共に目を覚ました老婆、知念椿(ちねん つばき)は深緑の着物に白金の帯、深緋(こきひ)の帯締めと椿の帯留めの上に割烹着を着て、朝日を浴びながらのんびり散歩をする。同じような生活サイクルの近所の老人たちと挨拶を交わしながら辺りをゆっくり歩いて戻れば、ちょうど小学生の登校時間になる。  「いってらっしゃい」  「いってきまーっす!」  声をかけて見送る椿に小学生たちも元気よく挨拶を返して登校していく。椿は次々に通っていく小学生たちを見送り笑みを深めた。  小学生たちの波が終わると、彼女は一度奥へ引っ込み、今度は清掃道具を持って表に戻る。家の前から順に道路のゴミを箒で掃き始めた頃、今度は中高生が通っていく。  「おはよう、いってらっしゃい」  「……っす」  「……」  「いってらっしゃい」  「ん……」  「……まぁす」  年頃なのかイヤホンをしていて聞こえていないのか、中高生の中にはまともに返さない子も無視する子も少なくないが、椿は気にせず笑って見送っていた。  しかし、ある男子高校生が椿の前を通り過ぎようとした時、椿には彼が昼間にすぐそばの交差点で交通事故に巻き込まれて亡くなる光景が見えてしまう。彼女は真剣な顔をして口を開いた。  「あなた、今日は何があっても絶対に昼間にそこの交差点を通ってはいけないよ」  「は?……何言ってんの、椿ばあちゃん」  「もし具合が悪くなっても早退せずに保健室で寝てなさい」  急に変なことを言われた彼は怪訝そうに眉を寄せた。だが小学生の頃からずっと通学を見守ってくれていた椿の真剣な眼差しに、彼は唾を飲み込んで頷いた。それを見て初めて椿は彼に笑いかける。  「よろしい。気をつけていってらっしゃい」  「……いってきます」  彼は首を傾げながら登校し、最初はいつも通り授業を受けていたものの、そのうち熱っぽくなり保健室へ向かう。保健室で検温するとすでに37.7度あった。養護教諭から早退するかと聞かれ頷きかけた時、彼の脳裏に今朝のやり取りが過った。  鍵を持っていないからと適当に誤魔化し、放課後まで保健室で過ごすことにした。放課後、時短勤務で働いている母親が車で彼を迎えに行った。熱は38.0度を上回り、親と帰る恥ずかしさより歩かずに帰宅できるありがたみが勝っていた。  「ありがと……」  後部座席から弱々しく感謝を口にした彼に、母親がバックミラー越しに彼を見ながら言う。  「いつもそんだけ素直なら可愛いんだけど。……しっかし、あんた早退しなくて正解だったね。先生から連絡もらった時に早退して帰ってたら事故を見てたかも知れないんだから」  「うっさ、え?……事故?」  憎まれ口を叩こうとした彼が驚いて尋ねると、件の交差点を曲がりながら母親が頷く。彼は窓の外を覗いてみるが、辺りはもう全て片付いたのか何の規制もない。しかし車体の破片らしき物は散らばっているし、歩道の端に立っているはずのデリネーターもひしゃげている。  「こわ……」  「いつもはすぐ早退してくるのに……鍵忘れてて良かったわね」  「え?あぁ……うん……」  そういえば鍵を忘れたことにしていたと思い出して彼は曖昧に頷いた。デリネーターがひしゃげていたことからも解る通り事故を起こした車は歩道に突っ込んだらしい。幸い事故当時は歩行者がおらず巻き込まれた人はいなかったと母親から聞き、彼は朝に椿が立っていた辺りを見た。彼女はいつもと変わらず下校中の子どもたちを見守っている。  もしも椿の話を聞いていなかったら。もしも話を忘れて早退していたら。もしかしたら死んでいたかもと思い至り、彼は熱だけではない寒気を感じて身震いした。  その夜、ある家の庭で凛と佇む椿の木の前で、慈愛の笑みを携えて知人の家へ向かっている途中のブッダが足を止めた。それから温かみのある、けれど芯の通った声で木に話しかける。  「やあ、椿の」  「おやおや……誰かと思えば仏教の始祖様じゃありませんか」  ブッダが話しかけると木の幹が盛り上がり、優しげな老婆をつくり出した。その老婆は毎朝子供の登校を見守る"椿ばあちゃん"である。幹から老婆の体が生えている光景は不気味だが、妖を視る目を持つ者以外には見えない。端から見ればただ男性が木を見つめているように見えていた。ブッダは一瞬だけ事故のあった交差点の方へ視線を向け再び椿を見る。  「随分と働き者でご苦労様。ただ……あまり運命(さだめ)を覆さないようにね」  「はて……。私はただ報せるだけの存在。覆すとも覆さずとも、ただの老木には関わりのないことですよ」  「わかっているよ。だからこうして声をかけるだけなのだから」  事故で死ぬはずだった者も、死なせてしまうはずだった者も、この先の人生だけでなく死後の過ごし方までもが変わってしまった。ブッダがそれを指摘するも、椿は笑みを深めてとぼける。そう返ってくることも、彼女が今後も強制的に止める気はないことも、そもそも彼女がそういう存在であることも、ブッダは知っていた。彼もまた僅かに笑みを深めると、何事もなかったように知人の家へと歩を進める。  椿は去っていくブッダを視線だけで見送ると元の普通の木の姿に戻り、翌朝までただただ静かに佇むのだった。
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