とある女郎蜘蛛の場合

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とある女郎蜘蛛の場合

 東京都内の北西、滝も近い山奥のキャンプ場の管理事務所。そこに繋がる私室で長い長い黒髪を団子に纏める美女がいた。彼女の名前は八雲待雪(やくも まゆき)、このキャンプ場の管理人である。  ハイシーズンではない初夏のキャンプ場ではまだ朝晩は冷え込む。待雪は肌寒い外へ出ると事務所の近くに焚き火台を設置し、ホットサンドメーカーで目玉焼きを作る。その間に食パンにバターを塗り、半熟に焼いたそれを一旦取り出して、バターを塗った面を下にして食パンをホットサンドメーカーに置く。その上にコンビーフ、目玉焼き、コンビーフ、チーズの順で具材を乗せ、最後に今度はバターを塗った面を上にして食パンを乗せる。弱火で2分、ひっくり返して中火で2分焼けば朝食の完成だ。  待雪は両面に焼色がついたことを確認すると折りたたみの椅子を広げ、事務所内の冷蔵庫から取ってきたビールを片手にホットサンドを頬張る。サクッと心地好い音がすると同時に、食パンの甘みとじゅわりとコンビーフのしょっぱさと卵の黄身のまろやかさが口の中で広がり、噛んだところからチーズが伸びる。待雪はうっとりと目を細め、程よく残るしょっぱさをビールで流し込んだ。  「ぷはーっ!最っ高〜!」  朝食を楽しんだ待雪は自分の使った道具を片付けて管理事務所に戻る。ストーブの前でキャンプ雑誌を見ながら客を待つこと数時間。やっと本日ひと組めの客がやってきた。  このキャンプ場では一応、使用時に代表者が管理人に声をかけることになっている。お洒落なキャンプ服を身に纏ったショートカットの小柄な若い女性が恐る恐る管理事務所の窓口を覗き込む。  「あの……すみません。使わせていただきたいんですけど……」  「ええ、空いておりますのでお好きにどうぞ。ルールとレンタル品はこちらに記載しております」  「ありがとうございます」  「お帰りの際またお声がけください」  「はい」  待雪は朝からビールを呷っていたとは思えない真面目な受け答えをし、防水防火加工が施されたチラシを渡した。チラシの表にはルール、裏面にはレンタル可能品一覧が記載されている。女性はチラシを受け取り軽く頭を下げて仲間の元へ走り去った。  チラシに書かれたルールには基本的なキャンプ場のルールと炭の処理方法以外にも『管理人の撮影は禁止です』と書かれている。若者たちはルールを覗き込んでその文を見つけると、受付に行った女性に視線を向ける。  「この文が必要なくらい美人だった」  「!」  彼女が頷いて言えば男性陣は一斉に管理事務所へ視線を送った。複数人からの視線に気が付いた待雪が、何か困り事だろうかと首を傾げて様子を伺う。その仕草も相俟ってか彼らはその場に崩れ落ち、女性陣は冷ややかな目を向けた。  「くそっ、俺が受付に行けばよかった……!」  「しかも全部持参してるからレンタルで声をかけることもない、だと……!」  「……あほくさ」  どうやら仲のいい友人同士らしく、彼らは和気藹々と過ごしていた。多少声が大きくなってしまう瞬間はあれど、他に利用客がいない上、長時間続くわけではない。他のルールも全て守っている、マナーのいい客だ。いつの世にも「最近の若者は」という言葉はあるが、存外ちゃんとしているものだと待雪は頬を緩ませる。  しかし、そんな和やかな光景は一刻もしないうちに次の客により壊れてしまった。彼は開始時の受付もせず、管理事務所から見えづらい位置にテントを張ると、焚き火台を使用せずに地面で直接焚き火を始めた。それに気が付いた先程の若者グループが待雪に声をかける。  「あの……あそこのおじさん、たぶん焚き火台使わずに焚き火してます……」  「えっ!?うわ……情報ありがとうございます。注意しておきます」  身を乗り出して若者の指した方を見た待雪が顔をしかめ、念のため水を持って彼の元へ行く。男は待雪が来たのを見ると盛大に舌打ちし、持っていた飲み物で焚き火を消した。  「レンタルもできますから焚き火台をご使用くださいね。それからこちらルールの一覧です。厳守をお願いいたします」  「うっせ……あ?なんだ女か……へぇ、結構綺麗な顔してんじゃねーか」  表面上はにこやかにチラシを差し出した待雪だが、男が下卑た笑みを浮かべて舐め回すように見ると真顔になり、尻を触ろうと伸ばした男の手を避けた。それからチラシを男の顔に思いきり叩きつけて管理事務所に戻る。若者グループは待雪の対応に控えめな拍手を贈っていた。  男はまさかそんな対応をされるとは思っておらず暫く呆然としていたが、避けられ叩きつけられたと認識すれば怒りに変わり、大声で喚き始めた。待雪は雇われの管理人ではないのもあり、迷惑客への対応は容赦がない。事務所から身を乗り出して男に叫び返す。  「ルール厳守しろっつってんだろ!いい歳して簡単なルールも守れねぇのかボケ!焚き火で焼いて食うぞコラァ!」  存外ドスの利いた待雪の声に驚き、再び男は思考停止した。この場所では強く出られないと思った男はすごすごと荷造りし、それでも最後に嫌がらせとしてゴミを散らかして去っていった。待雪は深い溜め息を吐くと、事務所の隅にいる小さな蜘蛛たちに声をかける。  「お前たち、あの男を深夜に巣へ連れておいで。久しぶりの食事としようじゃないか」  蜘蛛たちがバレないように男を追っていくのを一瞥し、待雪は黙々とゴミの処理をする。それから若者グループへと近づき、頭を下げた。彼らは待雪の謝罪に「スカッとした」「カッコよかった」と返し、引き続きキャンプを最後までルール厳守で楽しみ、待雪に声をかけて日没前にと茜色の空のもと下山して行った。  深夜、待雪は近くの滝の傍にある大きな大きな蜘蛛の巣にいた。だがその姿はキャンプ場の管理人をしている時の姿ではなく、巨大な蜘蛛の体から髪の長い人間の女性の上半身が生えた妖の姿だった。  そこへ昼間の迷惑客がふらふらとやってくる。見開いた目は虚ろで、足元は覚束ない。男には意識はなく、待雪に近づくにつれてうっとりと目を細める。待雪が軽く指を動かすと蜘蛛の糸に吊られ男は蜘蛛の巣に絡め取られる。  「お前たち、食事の時間だよ」  待雪のひと言で蜘蛛が一気に男に群がった。男は蜘蛛たちにその身を齧られても反応しない。ただ待雪に魅入られたまま、食われていることに気付くことさえできず死んでいくだろう。
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