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野薔薇の里の美しい鬼の骨
耳のすぐ脇を蜜蜂が唸りながら飛んでいく。
山道に沿って可憐な白い花が咲いているのを目で追いながら、時々立ち止まっては何度も深呼吸をする。
また野薔薇の里へ来ていた。おれの最近の気に入りの場所だ。
日常に息苦しさを覚え、目の前がぼんやりと曇って世界に薄い膜が張られているような――目を開けたまま夢を見ているような心地になった時にここへやってくる。
「野薔薇の里」は、通称だ。山裾から山の中腹まで野薔薇がつづいているから野薔薇の里と呼ばれている。村の名前は覚えていない。
この村は、かつて人喰い鬼がいたことでも知られていた。むしろ、そちらの方が有名だと思う。
こんな話だ。
昔、麓の村の村長の家で男女の双子の赤子が生まれた。見目は麗しい。しかし、奇妙なことに男の赤子の額には角が生えていた。
村長は不吉な鬼のしるしだとして角のある赤子を山へ捨てるように下男に命じるが、下男は赤子の命を奪えなかった。かといって、秘密を知っている自分は村へ戻れない。戻れば、殺されるだろう。そう考えた下男は、山の奥で赤子を育てながら暮らす決心をする。
やがて角のある赤子は青年となる。育ての親が生きているうちはよかったが、亡くなると途端に人でなしの本性が出たのか、若い女をさらうようになる。
そうこうするうちに、村長の娘が美しいという噂が鬼の耳に入る。生まれてから離れて暮らしているうえ、何も知らされずに育った鬼は、娘が血を分けたきょうだいだとは気づかない。
村長の娘は鬼に捕らえられ、鬼の棲み処へつれ去られる。
娘が大人しくさらわれたのは、捕らえられた他の女たちを逃すことができるかもしれないと思ったからだ。
娘は鬼に抱えられた時に密かに庭に生えていた野薔薇を手折ると、その棘で指の腹を傷つけ、にじみ出た血を野薔薇の花につけては少しずつ地面へ落としていく。村の者に見つけてもらうために。野薔薇は薬になるので、村の屋敷で娘が育てていた。
娘は賢く立ち回って捕らえられていた女たちを解放していく。しかし、最後に残った娘が逃げ出そうとしているのを見た鬼は激怒し、娘の顔を鋭い爪で傷つける。
ほたほたと地面へ落ちた娘の血は見る間に野薔薇へ変じ、生き物のように鬼を取り囲もうとする。娘にも人とは異なる力があった。
わたしたちは血のつながった本当のきょうだいなのよ――そう娘は告げる。
わたしにきょうだいがいるのは知っていたわ。だって、この世に落ちて息をするずっと前から角のある子と一緒に過ごしていたのを覚えているもの。引き離された時もね……。それに、嘆く産婆や怒り狂う祖父の声も聞こえていたわ。
鬼は娘の言葉に驚き、また押し寄せる野薔薇に動揺して棲み処を飛び出す。飛び出した先には、屋敷で雇った腕の立つ者たちが待ち構えていた。
鬼には野薔薇の匂いがまとわりつき、どこへ逃げても甘い匂いで場所がすぐにわかる。
追い詰められた鬼は血を吸い込んだかのような暗い刃の刀で首を刎ねられ、息絶える。
顔を傷つけられた娘はいつの間にか姿を消し、どこへ行ったのか行方は知れなかった。
鬼の首はポーンと飛んで一番高い木のてっぺんに落ち、誰にも触れられないまま、今でも麓の村の方を見ているとのことだ。
この辺りの土地では、人にはない不思議な力を持った鬼の子供が生まれることがあるという。
数年前に刊行された人気作家の小説の舞台になったとかで、豊かな自然だけが取り柄のこの土地にも作家のファンやホラー好きな者たちが訪れるようになった。
五月も半ばを過ぎて野薔薇の見頃とはいえ、早朝の山道にはまだ人の気配はない。その方がいい。今日は一人でいたかったから。
薄暗い杉林が途切れる。蜜蜂の羽音がさらに大きくなる。
野薔薇の群生地。金の陽射しが差し込み、土と草木のむうっと甘い匂いの他に、つんと鼻腔をくすぐる若い女の汗のような匂いが混じる。生命の匂い。
とりわけここに野薔薇が繁茂しているのは、鬼が最後にたどりつき、斬られた場所だからだという。
ふいに足を止めたのは、誰もいないと思っていたその場所に先客がいたからだ。
若い男。二十代半ばくらいか。陽射しで髪が赤い。地毛なのか染めているのかわからないが、赤銅色の髪は目を閉じているその整った横顔に似合っていた。何かに祈りでもしているような密やかな雰囲気が男にはあった。
ぼうっと見つめていると、こちらへ顔を向けた男と目が合った。
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