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「こんにちは」
おれを見て男が屈託なく笑ったので、ぎょっとした。いきなり声をかけてくるとは思わなかったから、うっかり間抜けな顔をしてしまった。こういう人の懐にすっと飛び込んでくるようなやつは少し苦手だ。
「こんにちは、地元の人、ですか」
挨拶を返す。男は近くに住んでいる者なのか、荷物などを持っていない。
「まあ、そうです。あなたもこの土地の鬼の話に惹かれてやってきたんですか」
「いや、おれはカメラが趣味で……野薔薇を写したいなと」
おれは首から下げているカメラを持ち上げて見せた。
「ああ、近頃、カメラを手にした若い人をよく見かけますよ。ここが小説の舞台にもなったそうで、その効果もあるかもしれないですね」
おれは野薔薇に近づいてカメラを構えた。
「そうですね」
男が話しかけてくるのもかまわずに写真を撮った。あまり話しかけられても困る。立ち去ってくれないだろうかと男の方を見ると、男もまた笑みを浮かべてこちらを見ていた。
笑い方が弟に似ていた。どこか困っているふうに眉尻を下げ、目がすうと溶けたように細くなる笑み――おれに話かけてくる時の顔を思い出し、目を逸らした。
男を気にしないように撮影をつづけた。
「鬼に興味ありますか」
唐突に男はそんなことを言った。
「はあ、昔話みたいなのはわりと好きかも、ですね。鬼の首がこの辺りに本当にあるなら見てみたい気はします」
「案内しましょうか」
「は」
「案内できますよ」
男は同じことを繰り返した。少しだけ、興味を引かれた。
「本当にあるんですか? 鬼の首が?」
「鬼の首が引っかかってると言われている大杉はありますよ」
男はまた眉尻を下げて笑うと、林の暗闇を指差した。
「どれですか?」
男が肩へ触れそうなほど近くへ来る。そして、またぼんやりとした闇へ指を向けた。
「ここからだとわかりにくいですね」
「でも、そういう大木があるにしても、鬼の首はてっぺん近くにあるって話だから、下からでは見えないのでは」
「というより、嘘なんですよ。鬼の首があるというのは」
「それはどういう……?」
「鬼の首は本当にはないですよ」
「まあ、そうでしょう。ファンタジーのようなものだから」
「そうじゃなく、鬼は首を斬られず、生き延びたんです。実際は、鬼は美しい村の娘と結ばれたんですよ。だから、この土地で今でも鬼の血を受け継ぐ子供が生まれるんです。ですが、鬼を蔑む者も少なくなかったので、鬼を退治したという話が広まったのでしょう」
男はまるで見てきたかのように言う。
「そんな話ははじめて聞きました」
「鬼と村の娘が結ばれたことを知られたくない者がいるからですよ。証拠を見ますか?」
「証拠?」
「ここから少し離れた森の奥に小山があって、表面は蔦の葉で覆われていますが、蔦の葉は秘密の抜け穴を隠しているんです。穴を抜けた先に立派な祠があって、中に石の棺が置かれています。そこに角の生えた鬼の骨が入ってますよ」
なぜか脳裏に白い骨の映像が浮かんできて目眩を覚えた。見たこともないのに、ありありとその色とかたちが浮かんでくる……。
ただの想像だというのに匂いを感じた。むんと漂う草木と土の甘い香り、それから若い女の汗のような……。
野薔薇の匂いだ。
二つの骨。
暗闇に二つの骨が抱き合うように、愛おしそうに寄り添って折り重なっている。
男女の骨だ。どうしてかわかる。
そのうちの一つの頭には角が生えていて……。
おれは妄想に吞まれかけ、あわてて頭をふった。
「本当なら、すごいですね」
「本当です。行ってみませんか、そこへ」
男の笑みは、やはり弟を彷彿とさせた。
正直なところ、行ってみたい気持ちはあった。が、躊躇するのは、男が弟に似ているからだ。
男がこちらへ手を伸ばす。
おれは一歩下がって、両手を上着のポケットへ入れた。拒絶だ。
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