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「おれは、ここで写真さえ撮れればいいんで」
明るい陽射しのせいか、男の体の輪郭がゆらりと揺らぎ、赤い髪が風もないのにふくらんだように見えた。
「それじゃ、仕方がないですね。あなたなら一緒に来てもらえそうだと思ったのですが。またどこかで会えるかもしれません」
あっけなかった。
男はおれの方を向いたまま、後方へ跳んだ。あまりの跳躍に呆気に取られているうちに、男はさらに数度の跳躍でより深い山の中へ消えてしまった。
風が渡って草木がざわめいた。
もし、ついていったらどうなっただろう。
喉がひどく渇き、帰りに開いたばかりの駄菓子屋でラムネを買った。
店主は小さな老人で、窓際のイスに腰を下ろしている。
「近頃、外からやってくる人が増えたせいか、時々、おかしな人が出るから気をつけてな」
「おかしな人? 不審者ですか?」
「ナイフで切りつけようとしてくるのがいるとかで、ここに来た人には一応声をかけてるんだよ。とくに……」
「不審者の外見はわかりますか」
「若い男って聞いたけど、顔立ちまでは……村では見かけない顔って話だから、おまえさんがそうじゃなきゃいいな」
冗談のつもりか、店主はあははと笑った。
おれは上着のポケットに手を入れた。指先にナイフが触れる。折りたたみナイフだ。
一瞬、不穏なことを考えるが、顔までは知られていないようなので、騒ぎを起こさずに帰ることにした。
ここへ来るのも潮時かもしれない。
おれは、日常に息苦しさを覚え、目の前がぼんやりと曇って世界に薄い膜が張られているような――目を開けたまま夢を見ているような心地になった時に野薔薇の里へ来た。通っている学校から電車一本でやってこられるからだ。
目の前にかかった膜を破るにはナイフが必要だった。
ナイフをふるうと少しだけ心が晴れる。
十歳の頃、父方の祖父の家へ行った時のことを思い出す。
近くにある山へ入ると、同じ年くらいの子供がいた。
昆虫採集をしている子供に手を引かれて秘密の狩り場へ出かけ、夢中でカブトムシやクワガタムシを集めた。面白いくらいにほいほい採れた。
子供は虫の他に、奇妙な卵を見せてくれた。青白い卵だ。
――蛇……いや、鳩の卵かな。
――違うよ。もっと、きれいなものだよ。
――へえ、どんなの。
――天使だよ。
子供は得意げに断言した。
――天使は卵から生まれないだろ!
――生まれるさ。
子供が人差し指でつつくと、卵がひとりでに割れ、中からこぶしほどの光るボールのようなものが飛び出してきた。光球は空中で一度静止した。光の内側に蝶のような羽根が見えた。
――しまった、よけろ!
子供が叫ぶのと同時に、光球がおれの顔に向かって突っ込んできた。避けきれず、悲鳴を上げてよろけた。結構な痛みがあった。
額にぶち当たった後、光球は彼方へ飛び去った。
――今の何?
――失敗した、妖精だ。あいつ時々天使の真似をしてるんだ。何か盗られなかったか?
――いや……たぶん、何も。
日暮れに子供と別れて祖父の家へ帰ると、玄関に鍵がかけられていて中へ入れなかった。呼んでも人が出てくる気配がない。どころか、家の様子が一変していた。出かける前にはなかった蓬や雑草が玄関先にまで押し寄せるように繁茂している様は、まるで人気の絶えた空き家のようだった。
元気だった祖父の姿もなかった。後になって、祖父は死んだと聞かされた。
神隠しだと当時ずいぶん騒がれた。
おれ自身がそうとは気づかないまま、十五年の間、行方知れずになっていたとのことだ。
行方知れずだったおれは、十五年前と変わらない容姿と服装で戻ってきた。
最初はおれも信じられなかった。皆でおれを騙そうとしてるんだと思った。とりわけ、まだ五歳だったはずの弟が、おれよりずっと背の高い青年になっていることは。
見知らぬ青年の顔――とはいえ、たしかに顔立ちに弟の面影があった。目と口の下にあるほくろや困ったように眉尻を下げる笑い方に覚えがあった。
今は、おれの方が弟のようになっていた。
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