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scene 1
金曜日の夜。歩廊の時計が「7時」を示していた。地元駅の改札を抜けて、アーケード付き商店街に足を進めた。その第1号店であるという駄菓子屋兼玩具屋〔でぼん亭〕を私は訪ねた。私の顔を認めた店主の老婆が「おいよ」と云いながら、約束の品を勘定場の台の上に置いた。私は代金と同じ金額を老婆に渡し、それを受け取る。簡単な礼を述べてから、私は〔でぼん亭〕を出た。
私は〔でぼん亭〕から5分ほど歩いたところにある〔おたま食堂〕の暖簾をくぐる。コの字カウンターのみの小さな店だが、常に旨い食事が期待できる。私は空いている椅子に腰をおろし、最盛期の桃井かおりそっくりの女将に日替わり定食を頼んだ。今日のそれはミックスフライ。従来、食前にレモンサワーか、ハイボール、あるいは、冷たい清酒を呑るのが、週末のささやかな楽しみになっている。が、今日はやめておこう。帰宅後に大事が待っている。
厨房の奥の洗い場で、食器や酒器を洗ったり、拭いたりしている男がいる。まだ若い。二十代の半ばぐらいか。スレンダーな体形をした黒髪の美青年(と云えるだろう)だ。詳しいことは知らぬが、役者をやっているらしい。時々、彼が出演している芝居のポスターが店内の掲示板に貼られていることがある。しかし、映画はともかく、観劇の趣味を有さぬ私には、さほど関心を覚えるものではない。退屈し、客席で居眠りをするぐらいなら、端から行かぬ方が良い。
揚げ立てのミックスフライ(豚・海老・帆立・玉葱)とポトフ風のスープで、丼飯を二杯も食べてしまった。
食後のコーヒー(これも美味しい)をすすってから、私は定食の代金とおにぎり三つ(※今夜の夜食か、明日の朝食にするつもりである)の代金を合わせたものを作業を終えた演劇青年に渡した。その際、彼の視線と私の視線がぶつかった気がした。
毎週金曜、決まって来店する無口な客に、多少興味があるのかも知れない。なるほど、演技屋をやっているほどだから、好奇心は旺盛な方なのだろう。だが私は、他者に興味を持たれることがあまり好きではない。むしろ警戒しなくてはならぬ境遇だ。私は〔おたま食堂〕を出て、自宅に至る道を歩いた。
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