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scene 11
年齢の割には、視力は良い方である。手を振る魔宮遊太を私ははっきり視認していた。天真爛漫…と云いたくなる表情であり、動作であった。少年の顔である。ハムレットよりも、むしろロミオが似合いそうだ。実際、演っているかも知れない。
「……」
刹那迷ったが、無視をして通り過ぎるのもかえって不自然であろう。心を決めた私は、魔宮の待つ〔水龍の泉〕に向かって、歩き始めた。特に難しいことはない。当たり障りない会話をし、適切なところで立ち去ればいい。
水龍の泉。エド百名水のひとつ、屋根付きの水飲み場(兼水汲み場)である。四本の円柱が、石造りの屋根を支えている。楕円形の石プールは常に新鮮な湧水で満たされており、訪れる者の喉を潤してくれるのだった。
プールの中央には『虻沼狂山 作・水龍像』が眼光鋭く、空間全体に睨みをきかせている。水面に半身を浮上させた姿は、迫力満点だが、よく見ると、案外ユーモラスな顔つきをしている。被写体としての魅力も充分に具えていると云えた。
「やあ」
私は泉の脇に設置された募金箱に小銭を投げ入れざまに、ランナースタイルの魔宮遊太に声をかけた。まるで、吉田健一がキャラクターデザインを手掛けた…かのような秀麗な容姿。私自身も、動画の世界の住民と化した気分がする。
「おはようございます。こちらでお会いするのは初めてですね」
魔宮が軽く、そして優雅に頭を下げる。1980年代の田中真弓そっくりの声。類い稀な才能に二つも恵まれている。なるほど、俳優の道を志すわけである。
「魔宮君だったな」
「はい」
「毎日走っているのか」
「そうですね。雨の日以外はだいたい走っています」
「それは感心なことだ。走りっぷりもいい。陸上選手の役ができるぞ」
これは世辞ではない。本心の言葉である。
「ありがとうございます。ランニングに関しては、ただ駆けまわっているだけで、まったくの我流ですけど……」
「映画のオーディションでも受けてみたらどうだね。君なら楽に合格しそうだ」
魔宮は照れたように笑った。その表情もまるっきり少年のそれであった。
「一応舞台を中心にやっていますが、機会があったら、挑戦してみます」
「まあ、頑張ってくれ。昨夜のミックスフライはなかなか旨かった。大して儲からん客だが、これからも寄らせてもらうよ。女将さんによろしく。では……」
云いつつ、私は〔水龍の泉〕から離れようとした。
「あの、お客さん」
その瞬間、魔宮の瞳がきらりと光った。それは、好奇心のきらめき。
「なんだね」
「ひとつ、お願いがあります」
「私に?」
「ええ。もし支障がなければ、お名前を教えていただけないでしょうか」
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