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scene 12
奇妙な成り行きになった。魔宮遊太と私は、湧水を詰めた2リットルボトルを両手にさげて、水龍の泉を離れた。いわゆる「堅気の衆」とは、一線を引くべき立場に私は立っている。偽善屋の戯言と笑われるかも知れないが、自分の争いに彼らを巻き込みたくないからである。
ダークサイドに落(堕)ちた人間は「あっ…」と云う間に、身も心も闇色に染まってしまう。足を洗おうとしても、簡単に洗えるものではないのだ。私が闇商売の廃業を声高に宣言したところで、現役の連中が「はい、そうですか」と退いてくれる可能性は極めて低い。
その際、戦いが起きる。私とて、むざむざ命を奪われるのは嫌である。当然、最大限の抵抗を試みる。殺すか、殺されるかの野獣の闘争になる。困ったことだが、そのような展開を招く材料を私は幾つも抱えているのだった。闇時代にこしらえた「地獄の負債」とでも云うべきものである。この借金、返すのは大変難しい。
そんな私が、気がついた時には、魔宮遊太の水汲み作業を手伝っていた。そればかりか、いっしょに〔おたま食堂〕まで運ぼうとしている。魔宮が頼んだわけではない。驚いたことに、私の方から、申し出たのである。この町に住むようになってから、私は変わった。二年ほど続く、堅気もどきの暮らしが、私の中から相当量の毒気を抜いてくれたらしい。加えて、魔宮が有する不思議な魅力も大きい。ある者にはあり、ない者にはない、人徳、人望というやつ。あの長谷川豹馬と同種のものをこの演劇青年は具えているようだ。美顔と美声に並ぶ、第三の才能である。
魔宮遊太と私は、なまず公園を出て、布袋商店街に至る道を歩き始めた。道中、パンダの着ぐるみ(めいた服)を身に着けた女の子とすれ違った。名物幼女ノリカであった。地元在住、エド屈指の服飾デザイナー、竹富愛果の娘である。ノリカは、常に母親の作品を着用し、商店街のマスコットキャラクター的存在として、地域住民に愛されている。パンダの他に、イヌ、ネコ、サル、タヌキ、ラッコ、コアラ、カンガルー、アルマジロ、カタツムリなど、豊富なヴァリエーションを誇る。
「おはよう、ノリカちゃん」「おはよう、遊太にいちゃん」
演劇青年と着ぐるみ幼女が親しげに挨拶を交わす。ノリカも〔水龍の泉〕に水を汲みに行くらしく、右手に『ちいかわ』柄の水筒を握っていた。
「こちらのおいちゃんは誰?」
と、ノリカが魔宮遊太に訊く。おいちゃんとは、私のことのようだ。
「うち(おたま食堂)のお客さんの石動さんだよ」
「ああ、そうなんだ。石動のおいちゃん、おはようございます」
パンダ幼女が私に体を向けて、ぴょこんとお辞儀をする。おはよう。ノリカの挨拶に私は会釈で応じた。石動。石動台門。それが私の、今の名前である。
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