第一章 国家機密を守り抜け

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 有紗たちが軍用ヘリから降りると、ひとりの男が近付いてきた。五十がらみの男の眼光は鋭い。一瞬だけ佐々木へと視線を走らせたが、すぐに有紗に目を向ける。 「久しぶりだな有紗。トリガーを引く瞬間に、右肩がわずかに動く癖は直したか?」  有紗は苦笑することで、否定も肯定もしなかった。それを、まだ直っていないのだなと受け取った男は、やれやれと肩をすくめた。男の名は長澤克彦(かつひこ)。彼は有紗に射撃のイロハを叩き込んだ、いわば師匠。何度も繰り返してきた注意をもう一度しようと口を開きかけたが、声を発することは叶わなかった。 「長澤さん。例の件に関して情報が入りましたので、こちらへ」  情報分析官である佐々木の声に長澤は一瞬ためらいを見せたが、結局、有紗への小言は諦めたようだ。葛城と共に長澤は【Ⅲ】と書かれた扉へ向かう。有紗は【Ⅴ】と書かれた扉に向かって、歩を進める。有紗の歩みに合わせたかのように扉が開く。  左右と中央に伸びる通路が出迎え、彼女は右の通路へ歩を進める。二十メートルほどの距離を進む間に声紋、瞳の虹彩パターン、指紋・掌紋、動作認識の検査をクリアしていく。突き当たりの扉が開かれると、左側にはアルファベットが、右側に数字が記されたドアが並んでいる通路に出た。有紗は【T】の扉前に立つ男の姿を認めると、小さく息を吐いた。 「お疲れさん」  扉に背中を預け両腕を組んでいた兄、健人が妹の姿を見て気軽に右手を挙げた。有紗も同様の仕草で兄に挨拶を返すと、真正面に立った。 「兄さんもお疲れ。今日はあの女――元母と一緒にこっちに戻ってきたんだけれど、香澄さんの話をしても無関心だったわ。哀しいことね」 「仕方ないだろう有紗。俺たちが内保局に入るって決まったときから、お袋から俺たち兄妹や、親父に関する記憶は抹消されたんだから」  そうね、と返事をし、妹は眼前の扉を指した。 「どうやら私たちに任務みたいね。この組織は、休む間を与えてくれないのかしら?」 「国家の秘密組織なんだから、文句言うなよ。俺たちの仕事は、日本に入り込んだ他国スパイの抹殺なんだから」  有紗は肩をすくめると、肩までの黒髪を鬱陶しそうに後ろに払った。  この組織に入ると決めた後、有紗は肩甲骨の下まであった髪を「これからは邪魔だから」の理由で、少年のようにショートカットにした。訓練が終わり一人前の暗殺者になってからは少し洒落っ気も戻ったので、肩に付く長さに戻しライトブラウンに染めている。  健人の方は大学時代から変わらず黒髪のままで、素人時代よりも筋肉質になった。とはいえ、隆宏(たかひろ)に比べると線は細く見えるのだが。  スパイの楽園と揶揄されて久しかった日本にも、十年前ついにスパイ防止法が成立、施行された。それまでに施行されていた共謀罪などと合わせ、日本に潜り込み放題だった各国スパイや協力者などの内通者は、密かに国外追放になったり暗殺の対象になった。  日本には内閣情報調査室はあったが、諜報・防諜組織としての機能は公安警察に遅れを取る形になっていた。スパイ防止法の成立と施行に伴い、内閣府直下組織である内閣情報調査局――通称、内調の機能を拡張・充足することとなった。公案警察と二枚看板で国家の防諜と諜報を担う組織をとの目的で、内調の組織編成が急がれた。  そこで誕生したのが、内閣保安情報局〝Cabinet Security Intelligence Agency”だ。内保局、または頭文字を取ってCSIAと呼ばれる組織である。公安警察の仕事内容とほぼ同じだが、内閣府の直轄組織である為に、国内の危機は即座に報告される。また、今までのように監視だけでは重要な国家機密が漏洩されるので、喫緊の事態に限ってのみ秘密裏にそのスパイを抹殺する暗殺部隊を設けた。それが倉科兄妹が所属する幽霊(ファントム)セクション。  主に共産主義国出身の背乗り行為を炙り出し、秘密裏に始末する。時には日本側の産業スパイを拘束、または暗殺することも重要な任務だ。兄妹が今日、密かに暗殺した男たちは半島の工作員たち。日本人の戸籍を背乗りし、経済産業省の官僚と与党の中堅議員の私設秘書として潜り込み、日本国を弱体化させる任務を帯びていた。地元に戻っていた私設秘書の工作員を有紗が、経済産業省の工作員を健人が始末した形になっている。
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