序章 過去と始まりの物語

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「話をまとめるけれど。妹さんは駅前にある学習塾に通っている。二十一時に講習が終わるので、いつもお兄さんの健人さんが迎えに来る。帰りに何か食事をしようというところで、母親が男とホテル街へ消えていく姿を見たので尾行した。こういうことでいいのかい?」 「さっきから何度も言っているでしょう?」  同じ事を何度も繰り返し聞かれ、空腹も相まって有紗の機嫌はすこぶる悪い。塾に行く前に軽食を摂ってはいるが、講習で摂取したエネルギーは消費されてしまう上に、若いだけあって代謝がすこぶる良い。 (あぁ苛々する。こっちは空腹だっていうのに、こいつニンニク臭いのよ! 夕飯に餃子食べたんだろうけど、女子高生に向かってこんな口臭をばらまくなんて最低! さっさと解放してよ。制服にニオイが付いちゃう。まったく)  事情を聞いてくる私服警官の強烈なニオイに、顔にこそ出さなかったが拳を握ることで不快感を我慢する。別室にいる健人も同じ状況だ。もっとも彼の方は悪臭に悩まされなかっただけマシだったが、それでも空腹による不快感は増大していく。  二人の我慢も限界に近付いたとき、明らかに上層部と判る雰囲気の男がそれぞれの現れ、担当者に何事か耳打ちする。有紗のいる部屋に来た男が、一瞬だけ眉を顰めたことを彼女は見逃さなかった。 「は? わ、判りました」  担当者は席を外し、お偉方と思しき男が兄妹を応接室に案内する。耐えがたい悪臭から解放された有紗は新鮮な空気を肺一杯に吸い込み、健人は座りっぱなしで固まりかけた背筋を伸ばす。  今まで水の一杯も出さなかったくせに、湯気がのぼるコーヒーを出された。ひとくち飲んだ感想は、二人とも「安いインスタント。不味い」だった。コーヒーが苦手なふりをしてそれ以上は遠慮すると、頃合いと思った上役(うわやく)と思しき人物が、気色の悪い微笑みを浮かべて話しかけてくる。 (おっさんの猫なで声って、気持ち悪い)  有紗はポーカーフェイスだが、内心では毒づいてみせる。健人の方はあからさまに嫌悪感をみせ、腕を組むと大仰に溜息を吐いた。 「あなた方の素性は、署の上層部が保証すると連絡がありました。署員がご迷惑をおかけしました。ご自宅まで送りましょうか?」 「いいえ、お気持ちだけ頂きます」  健人が大人の回答をすると、鼻白んだ空気が一瞬だけ流れたが無理強いはされずに済んだ。兄妹は内心で、父親が手を回したなと呟きながら所轄署を後にした。警察組織の上下関係に詳しくはないが、少なくとも父親は所轄署に圧力をかけられる程度には権力があるらしい。今回はそれで助かった。 「あーお腹空いた! 兄さん、もうこんな時間だけど何か食べて帰ろうよ」 「そうだな……ってお前、何かニンニク臭くないか?」 「やだマジで? 最悪ーっ! 私を担当した人、めっちゃニンニク臭かったんだよね。替えの制服を準備しなきゃ」  クリーニングに出さなきゃとこぼす妹を宥めながら、兄は母と一緒に歩いていた男は誰だろうと、あの後ろ姿を思い起こしていた。
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