序章 過去と始まりの物語

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 繁華街へ戻り、大衆食堂へ入った。仕事帰りの客たちは場違いな格好の有紗に視線を釘付けにするが、空腹で殺気立っている兄妹が睨みを利かせると、あっさりと視線を外した。それでもチラチラとあわよくばを狙う酔客が視線を投げるが、健人がひと睨みすると、舌打ちをして「何だよガキが色気づきやがって」と吐き捨てる。  取り敢えず生姜焼き定食と焼き鯖定食を注文し、若い食欲を満たすことに専念した。健人は更に天ぷら蕎麦の大盛りを、有紗はきつねうどんを追加して満足した。  二人ともなかなかの大食漢だが、胃下垂のせいか体型が一切変化しない。その上、空手や合気柔術で身体を動かすので、食べないともたないのだ。  腹が満ちるとようやく頭が回転を始め、いかがわしい場所へ消えていった母のことが気になった。警察署で二時間ほど時間を喰ってしまった。母は、もう帰宅しただろうか。  兄妹は日付が変わるまで粘ったが、明日も学校がある有紗のために帰宅した。 「父さんに話さないとな」 「……兄さんから話してくれる?」  学校と学習塾の課題が待っている有紗からすれば、父親との会話で時間を潰すわけにいかない。忙しい父親とは普段親子の会話をする時間を取ることすら難しいが、それでも兄妹だけでこの重大な裏切りを胸に秘めておくことは苦しい。  一番の被害者は父親なのだ。そう思うと、健人は溢れてくる嫌悪感を必死に堪える。警察署を出てからずっと怒りで全身を震わせている妹の横顔を一瞥すると、任せておけと力強く返答する。  思春期の難しい時期に、母親の不倫現場を目撃してしまった。健人もそうだが、母親がひとりの女の部分を見せたことに激しい嫌悪感を覚えていた。確かに仕事人間の父にも原因の一端があるのかもしれないが、少なくとも父から女物の香水がしたり、不貞を疑われるような言動は一切なかった。  警察官という職業に誇りを持っている父は、兄妹が幼い頃からたまの休みに兄妹にむかって、一緒にいる時間が少なくてすまないと詫びの言葉をくれていた。学校行事などに参加できるときはしてくれたし、兄妹は父方の祖父母に養育されていたようなものだ。母の手料理など、殆ど記憶にない。 「ごめんね兄さん、嫌な役回りを押しつけて」 「気にするな。今この場にお前がいてくれて良かったよ。そうでなきゃ俺は、無関係の人間に喧嘩を吹っ掛けて、それこそ犯罪者になっていたかもな」 「それは私も同じ。仮にも空手の有段者が、そんなこと許されるわけがない。兄さんが隣にいてくれるおかげで、何とか理性を保っていられるの」 「明日、学校は大丈夫か?」 「正直言って、行きたくない。兄さんこそ大学は? 就活だってまだ終わってないでしょう?」 「俺は警察のキャリアを目指すから。卒業したら国家公務員総合職試験を受験する予定だから、就活はしていない」 「なるほどね。どうりで三年生になっても就活しなかった訳だわ。兄さんが警察のキャリアを目指していたなんて、意外だった」  そんな会話をしながら二人は家路につく。健人は大学四年、有紗は高校二年に進級したばかりの春。今夜の風は冬に戻ったかのように妙に冷たく、兄妹の心を余計に凍てつかせた。
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