第三章 永久(とわ)の愛を君に

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 婚約者の葬儀の日程を知らされた建人。ひとり格闘訓練場に足を運び、格闘訓練をしていた若いエージェントに声をかけ相手になって貰う。マーシャルアーツの訓練を始めた。  己の感情を発散させるかのように、訓練に身を入れる。若手の近接戦闘の技術はまだ未熟で、建人の一方的な攻めに防戦一方となっていた。  腕を取り、肘の関節を逆に決める。かと思えばそのまま背後に回り、チキンウイング・アームロックへと締め上げる。訓練生のギブアップの声が遠くに聞こえていた。緩めると反撃を許す前に足を払う。マウントポジションから殴る。  ――なぜ婚約者が殺されなければならなかったのか。  結婚式を明後日に控え、嬉しそうに届いていたドレスを前に、はしゃいでいた香澄の笑顔が、脳裏から消えなかった。こんなにも心が香澄を求めているのに、(かつ)えているのに、涙は不思議と一滴も出てこなかった。  荒い息づかいと、室内に響く打撃音。流れる汗が目に入ろうと気にならない。  遂に激しい訓練に耐えきれなくなった若手がギブアップし、ほうほうの態で訓練場を後にしていった。恨み言が微かに聞こえてきたが、健人は軟弱者めと小さく吐き捨てる。  またサンドバッグに向き直ろうとしたが、入れ違いで誰かが入ってくる気配に反射的に振り返り、腰を落として構える。 「兄さん」  有紗が無表情のまま入室してくる。途端に漂う、かすかな硝煙の匂い。それで兄は察してしまう。妹もまた感情の爆発を抑えるために、射撃場にこもっていたのだと。こんなに硝煙の残り香を漂わせるなど、らしくない。妹はどれほど射撃場に籠もって、撃ちまくっていたのだろうか。  怒りをある程度まで静めるためとはいえ、射撃訓練場の射的は撃ち込む箇所がないくらいに穴だらけだろうと、容易に想像がついた。もしくは、ワンホールショットで一穴しか空いていないか。 (どちらにせよ有紗の八つ当たりに居合わせた者がいたら、ご愁傷様ですと声を掛けてやりたいな)  自分の行いを棚に上げ、健人は流れてくる汗を乱暴に拭い去ると、妹を手招く。 「どうしたの?」 「香澄の私室に行って、ウエディングドレスを誰の手にも触れさせないようにして欲しい」  一瞬なんのことか判らなかったが、兄の意図を理解すると無言で頷き、猫のように静かに足音を消して訓練場を後にする。妹の気配が完全に消えたことを確認してから、建人はボクシング用のグローブを着け、サンドバッグを無心に殴り始めた。殴ることに飽きると、今度は蹴りを入れ始める。 「香澄、香澄! どうしてお前が死ななきゃいけないんだよ!」  誰もいなくなった格闘訓練場に、健人の小さな怒りの呟きと重い打撃や就撃音が響き渡っていく。やり場のない怒りや哀しみをサンドバッグにぶつけてもぶつけても、肚に溜まっていく悪感情は消えてくれない。  叫ぶ。獣のような咆哮をあげてサンドバッグを痛めつける。グローブを着けているのに拳が痛い。それでも構わずに殴りつける。 「健人、おい健人止めろ! 拳が壊れちまうぞ!」  いつの間にか隆宏が訓練場に入ってきており、無理矢理に羽交い締めにした。筋肉の塊である隆宏の力は凄まじいが、理性が飛んでいる健人は振りほどこうともがく。 「離せ隆宏! お前も殴られたいのか?」 「お前がまず落ち着けって! 無理かもしれんが深呼吸しろ。お前が冷静にならなきゃ、高田さんが可哀想だろ? 誰が高田さんを(あや)めた犯人をさがすんだよ!」   怒鳴られて少し頭が冷めてきた。だらりと両腕から力が抜け、隆宏に詫びを入れる。 「手ぇ見せてみろ」  言われてようやく痛みに気付く。グローブを取ると皮がむけて血だらけだった。 「怪我したら意味ないだろ。高田さんが悲しむぞ」  隆宏は健人の治療をする。互いに無言であるが、二人は訓練生時代からしのぎを削ってきた仲だ。言葉はなくとも、隆弘が彼なりに慰め発奮させているくらいのことは、健人にも充分すぎるほど伝わっている。  頭が冷えてきた二人は、訓練生たちが来る前に撤収し、隆宏の私室へと逃げ込んだ。
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