序章 過去と始まりの物語

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 約束通り健人は、帰宅した父の僅かな休息時間を利用して母の不貞現場を目撃したと話した。ほんの一瞬だけ父の英人(ひでと)の顔が強張ったが、すぐにいつもの無表情に戻ると、 「お前たちは今まで通りに生活しなさい」  とだけ告げる。 「なんでそんなに冷静なんだよ父さん。口惜(くや)しくないのかよ、俺は今すぐにでも母親(あいつ)を殴って親子の縁を切りたいところだ! 第一、有紗のことを考えてやってくれ。まだまだ反抗期のど真ん中で、母親の不貞を知ったんだぞ? 有紗がどれほど怒って嫌悪感を抱いて――」 「判っている。それらも含めて父さんに考えがあるから、今まで通りに暮らして欲しいんだ」 「父さん!」 「健人、父さんを信じて欲しい」  言いたいことは山ほどあったが、英人の冷酷な視線とぶつかり何も言えなくなってしまった。静かな怒りをその瞳の奥に湛えている父親に、このまま任せた方が良いのか。当事者はあくまでも父であり、自分は妹のケアに専念した方がいいのかもしれないと、健人の方も段々と冷静になってきた。 「……判った、父さんに任せるよ。生意気な口をきいてごめん」 「いいんだ。つらい思いをさせてしまって、こっちこそ申し訳ない」  目がやわらかくなった。久しぶりに見る父親としての眼差しに、健人も素直に謝罪を受け入れる。両親がどのような話し合いを行い結論を出そうと、自分は妹の心を守るだけだとの思いを胸に、健人は妹の部屋へ行った。妹は課題を終えたのか、明日の準備をしているところだった。 「どうしたの、兄さん」  制服には念入りに消臭剤をかけたのか、部屋には爽やかな香気が漂っている。ニオイが付いた制服はクリーニングに出すために密封袋に入れられ、替えの制服がちゃんと掛けられてあった。勉強机の椅子に掛けた妹と、ベッドに掛けた兄が静かに視線を交わした。 「有紗、お前はまだ未成年だ。ということは、親権の問題がある」 「あんな女に引き取られたくない!」  間髪入れずに叫ばれた。さらりと艶のある長い髪が乱れて頬にかかった。殺気立つ妹の肩を軽く叩くと、必死に堪えていたのだろう涙が一筋流れる。乱暴にそれを拭い去ると、有紗は乱暴に髪を後ろに払う。 「やだよ、お兄ちゃん……」  あまり感情を表に出さない妹が、両手で顔を覆い声をあげて泣き出す。幼い頃の呼び方をするほどに、今は精神的に参っている。兄は、黙って頭を撫でてやるしか出来なかった。  二日後の夕食時。珍しく両親が揃っていた。いつもはどちらも午前様か朝帰り、下手をすると泊まり込みということも珍しくなかったので、夕食を兄妹と共に摂ることなど滅多になかった。 「お前たちに話すことがある」  父の英人が口火を切った。母の真理子(まりこ)は無表情。兄妹は父がこれから話すことの内容を、何となく察した。 「父さんたちは離婚することにした。健人は成人しているから問題ないが、有紗はどっちについていくか決めて欲しい」  やはり、という台詞は二人とも胸の内に呑み込んだ。英人は警察関係者だ。明言されたことはないが、二人は公安警察だと察している。所属先や階級を告げられたことは一度もなかった。ただ毎日の帰宅は不規則で、スーツの日もあれば私服で出勤することもあった。
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