序章 過去と始まりの物語

6/11
15人が本棚に入れています
本棚に追加
/80ページ
 とうの昔に妻の不貞行為に気づき、証拠固めを粛粛と行っていたのだろう。兄妹が現場に出くわすずっと前から、切り札を手にしていたのだ。知らぬは馬鹿な母親ただ一人なりというわけだ。  成人している健人はともかく、未成年の有紗は十六歳で、あと二ヶ月もすれば十七歳になる。両親の離婚に際し子どもの意向を尊重される年齢(十五歳)に達しているので、遠慮なく意見を述べた。 「そんなの決まっているでしょう。お父さん側」  冷徹な声が響く。少々意外そうな顔をした母に向け、有紗は侮蔑の眼差しを送る。 「不倫するような尻軽女なんか、母親と思いたくないし思わない」 「え、有紗。あなたどうして」 「それを知っているのかって? あんたが男とホテルに消えていく現場を兄さんと一緒に見た。こう言えば理解できる?」  娘の台詞に真理子は顔面蒼白となり、項垂れる。 「相手の顔、見たの?」 「いいや。でもあんたが父さんを裏切った、決定的な現場を俺たちは見た。それで充分だろう?」  吐き捨てるかのように健人が言うが、相手の素性を知らないことに、真理子は何処かホッとしている。口に出さないが、夫である英人は敏感に察した。手回し良く英人は離婚届を準備しており、子どもたちの前で両親は署名捺印した。証人の欄には既に第三者たちの名前が記入されており、あとは提出するだけ。  慰謝料や財産分与の話は当事者同士で決めたことで、子どもたちは一切関わっていない。荷物をあらかじめ纏めてあったのか、真理子は大きなスーツケースを引きずって自宅を出て行った。最後まで夫と子どもたちに謝罪のひと言もなしに。 「塩を撒こうよ、兄さん」 「ああ。盛大に撒くぞ」  まだ門扉を潜っていない母親に、塩をぶつけてやる。一瞬だけ振り返りそうになった真理子の後頭部に、塩を盛大に投げつけると諦めたのか、彼女はもう振り返る素振りすら見せず、居直ったのか堂々とした足取りで出て行った。  翌朝、大学へ行くついでに健人が離婚届を役所に提出した。その日の夕方には僅かに残っていた私物は完璧に消え去り、仕事が忙しい父は相変わらず不在。  健人が自宅から通える大学に進学したのは、有紗を一人にすることは防犯上の問題もあったからだ。家事は兄妹で分担してやっていたので、殆ど家事をしなかった母親がいなくなっても何の問題もない。  父方の祖父母と同居していた家は、五年前に祖母が施設に入り二年前に祖父が亡くなったことで、すっかり広くなってしまった。母親が出て行った翌日、仏壇に手を合わせ祖父に報告をした有紗は、妙にスッキリした表情をしていた。 「おじいちゃん、私たちの新しい生活を見守ってね」  穏やかな笑みを浮かべる祖父の遺影。気のせいだろうが、いつもよりその笑みが穏やかに見えた。
/80ページ

最初のコメントを投稿しよう!