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彼の名前は坂口圭吾といった。背は少し高めで痩せ気味で、目立って顔がいいってこともなければ、不細工でもなかった。特に成績が良くも悪くもなく、ひょうきんさで目立つようなこともなく、スポーツが得意ということもなく、どこにでもいる十四歳、標準的な男の子といって差し支えないだろう。この年代には代わり映えのしない黒髪にショートカット。常に短すぎることなく、伸びすぎってこともなかった。学ランはいつもきちんと着ていた。洋服ブラシがきれいにかけられていたようで、表面がキラッと黒光りしていた。詰め襟の白いプラスチックもキラリと光っていた。首元にのぞく白い襟もきんとアイロンがかけられていた。坂口が手を上げるたびに袖口の学生ボタンがキラリと光って、カラコロといい音を立てるのが面白かった。革靴もお母さんだか本人だか、ていねいに磨かれたのが想像できるほど、埃もくすみもちょっとも見当たらず、キラッと黒光りしていた。もちろん靴下の白だってまぶしいくらいだった。折り目正しく、ていねいにアイロンがかけられたハンカチをいつも持っていた。無地のだったり、チェック柄だったり、お父さんのネクタイを思わせるような男性用の紺色のハンカチが多かった気がする。学生鞄も潰されてはいなくって、表面はいつもキレイに黒光りしていた。華美なキーホルダーが付けられていたり、シールが貼られてるなんてこともなかった。
ボクは本町小学校の出身。坂口は本町南小学校の出身。本小本小と南小南小の卒業生はほぼ全員がこの本町中学校に通う。二年生から同級生になった坂口のことを、ボクは一年生のときはまったく知らなかった。え?三組にそんなヤツいたの?ってくらいで驚いた。さすがに同級生を知らないなんてことはないけれど、隣のクラスなんて、数名はまったく知らなくっても不思議はないし、この坂口とはまったくもってなんの接点もなかった。いまだって共通点はなくって、強いていえば、帰宅部ってことくらいだ。とはいえ、誕生日順の出席番号で前後する坂口とは、一学期は席も前後だったし、なにかと二人組で組まされることが多かった。それは決して嬉しいことでも悲しいことでもなかった。
坂口は見当たらないなと思うと、図書館で地図を眺めていた。地理が得意で、いろんな国の名前とか場所とか、世界遺産とかもよく知ってた。古地図なんかもよく見ていて、日本の藩とかも暗記してたみたいだし、西洋の古い歴史、東ゴート王国とかなんとか、それよりもっと前のなんとか文明とかもよく知ってた。みんなに面白がられてそういう話をするのはあんまり好きじゃなかったみたいだけれど。図書の時間なんていうのが月に一回はあって、みんなで図書館で本を読まされたりした。特に男子たちの大半は戦時中のことが描かれた漫画を読んでいたけれど、坂口は黙々と地図帳を眺めていたっけ。
そしてよく空を眺めていた。授業中も教室の窓越しに空を眺めて先生に注意されることがたびたびあった。休み時間や放課後でさえ、ベランダに出て空を眺めている姿をよく見かけた。昼休みとか、お弁当を早くに食べ終えちゃって掃除が始まるまでずっとベランダで外を眺めてることもあった。ときどきなんだけど、顎の下あたりで手の平を下に向けて水平チョップをするような感じで、自分の首に向かって何回も小刻みに叩いてることがあった。ちょっと心配になるくらいってゆうか、なんか喉につまってるのかなって。いっつもじゃなくって、ときどきだけだったけど。
それから天気予報士にでもなりたいんじゃないかと思うぐらい、雲の形とか気候とか、星座なんかもよく知ってた。なんか聞いたことない星の名前とかつぶやいてることもあった。あれが源氏のリゲルでこっちが平家のベテルなんとかって…、そんなこと言ってた気がするなぁ。風の向きがどうとか、気圧がどうとか、明日はきっと、明日どころじゃなくて今日の何時くらいには雨が降るとか言って、それがまたよく当たってた。女子たちは坂口のことを「スカイ」って呼んでるみたいだった。
国語とか数学とかは得意じゃないのかなと思っていたけれど、授業中にあてられると、学級委員の天野さんでさえ答えられない方程式の問題を解いてみせたりすることもあった。ときどき、んー、なんて言いながらではあったけれど。そうそう。自分から手を挙げないんだけど、あてられると答えはたいてい正解だったんだよなぁ。先生がテストを返すときの表情を見てても、悪くない成績なんだろうなぁってボクは勝手に想像してた。
でも音痴だったか。坂口本人はまったく自覚がないみたいだったけど。ある合唱のときにクラス中のみんなが坂口の音がはずれてるのに気づいてクスクス笑ってた。でも坂口はみんなの視線をもろともせず大きな声で唄い続けてた。先生に注意されて一人で唄わされても恥ずかしがる様子も臆することもなくて、かえってみんなが一緒に唄おうとか、次の音ちょっと下げてみなよとか言ったんだったっけ。でもリコーダーも下手だったんだよなぁ。音ははずれるし強弱をつけられないみたいで、ほんと、ひっどいもんだった。それでもテクノ音楽が好きだったみたい。歌番組を見たりとかアイドルに興味がある様子はなかったけれど、うちのおじいちゃんが持ってたCDのシンセサイザーとかで演奏されるコンピューターミュージックみたいのが昼休みの校内放送とかでかかるとなんだか嬉しそうに聴いてたんだよな。そんな曲がかかってるときに話しかけると「ちょっと待って」みたいな感じで黙らされたのを覚えてる。で、坂口は怒ってるのかと思うと口角が上がってて、じっくり音楽を聴いていたあらわれだろうか、耳のあたりがピクピクしてた。
絵もヘッタクソだった。リンゴを描いてたはずだけど、どう見たってナスだった。丸じゃなくて長ぼそくって湾曲してて、しかも足が生えてた。指は三本だったっけ。一本だけ長い爪が尖ってたり。で、その果物?野菜?の色も全体的に赤じゃなくて青だった。色盲なんじゃないかって三枝が心配してたっけ。「ぼくにはこう見えるんだ!」みたいな主張をすることはなかったけれど、誰になにを言われても坂口は黙々と「我が道を行く」みたいな感じで自分の創作を続けていたなぁ。
体育は…、足は遅くなかったんだけど球技はひどかった。ボールをまっすぐ投げれないし、ドッジボールを顔面で受けちゃって、倒れたこともあったっけ。保健委員のカッチャンが連れて行ったら入り口のところで保健室の中に入らず、消毒液のニオイがたまらないって体操服のまんま家に帰っちゃったんだったな。そんなことはそのときだけだった気がするけれど。きっと学校から家まで休むことなく走り続けて帰ってったんだろうなぁ。あのときは近所だからって広斗広斗が制服とカバンと家に届けてあげなさいって河合先生に言われて、なんだかうやむやのうちにボクも付き合わされたんだったな。ボールをあててしまった吉野も随分気にして自分も行くって言いたいみたいだったけど、大人しい吉野はそれを言い出せないみたいだったし、広斗は面倒くさがって相手にしないでいたみたいだった。どちらかというと大人しい吉野が投げたボールを、いくら女子が力まかせに思い切って投げたボールに想像以上の力がかかっていたからって、それを顔面で受けて倒れてしまった坂口の方がおかしいって、みんな言わなかったけどそう思ってた。そうそう。ちょうど学校の下駄箱のところで広斗と靴を履き替えていたら、吉野が林と一緒に来たんだった。
「あたしたちも一緒に行く。」
「なんで?」
靴を履き替えながら広斗は割と冷たい感じで振り向きもせずに答えた。
「坂口、あたしたちと班一緒だし。」
「いんじゃない?俺たち二人で。うち、近いし。」
「でも、カズちゃん、気にしてるし。」
「大丈夫だよ、あれくらい。吉野、今日ピアノのレッスンなんだろ?」
「うん。でも…。」
「いいよ。俺たち二人で行ってくるから。」
広斗は女子たちと一緒に行くのを拒んでるみたいだった。たしかに、この女子二人と下駄箱の前で話してる間中ずっと、ほかの女子たちからの視線が痛かった。そうなんだ。広斗って結構モテるんだったよな。かっこいいし、部活じゃなくって地域クラブの方で合気道をずっとやってるんだよな。ガッチリいい体格してるってほどでもないんだけど、いわゆる細マッチョってーか。その割にどこか女子たちを遠ざけるようなところがあって、男子の中でも人気あるっていうか、いいヤツなんだ。うん。
「林も、塾あるんだろ?」
そこまで言われると女子二人は帰って行った。
広斗とボクは坂口の家があるマンションの入口に着いた。「超高級タワーマンション」て感じじゃないけど、まぁ、ぱっと見て小ぎれいな、そんなに古くはなさそうな一〇階建てくらいのマンション。オートロックのインターフォンで部屋の番号を押したら、坂口のお母さんがすぐに開けてくれた。河合先生から連絡を受けてパートを早退したんだって言ってた。
「悪いわね、荷物持ってきてもらっちゃって。」
坂口はおでこと左の肘を少しすりむいていたけれど、大したことはないんだって笑っていた。
おばさんはお茶やお菓子を出してくれた。まさかショートケーキは出てこなかったけれど、なんていうんだ、あれ、スナック菓子と小分け袋に入ったチョコレート。それから炭酸ジュース。ボクたちのおしゃべりにも付き合ってくれた。坂口の家の中はきれいに片付いていた。そりゃあ学ランだってきれいだよなって、納得するほどのキレイさだった。リビングのソファは清潔さが感じられ、ふかふかしてた。ガラス張りのテーブルは曇り一つなく、下に敷かれたカーペットにも埃一つ混じってなかった。
坂口にうながされてボクたちはリビングのテレビでゲームを始めた。おばさんも別に嫌がらなかった。流行りのゲームは一通り揃っていた。なんのゲームだったかをよく覚えてないんだけど、コンピューターミュージックのBGMだったっていうのは覚えてる。特にボクと広斗がプレイしてたときには、坂口の耳が少しばかりピクピクしてた。ボクたちはお行儀よく、順番に楽しくゲームをした。
おねえさんが帰って来た。坂口には高校一年生のおねえさんがいた。特別にかわいいってほどじゃなかったけれど、きれいって言うよりかわいいって感じのおねえさんだった。ボクらの学校では見かけない、肩までかかったふんわりした髪型が印象的だった。坂口とは仲が良い訳でも悪い訳でもなさそうだった。ボクたちを見ると「いらっしゃい」と声をかけてくれるような礼儀正しさも伺えた。
「音、小さめにしてね。」
おねえさんが部屋に入るタイミングで、おばさんは気を遣いすぎず、嫌味な調子も伴わずにさらりとボクらに言った。
「今日、宿題でた?」
「俺のノート見る?」
広斗は自分のノートをガラステーブルの上にひろげた。たいしてきれいなノートじゃなかったけど、必要なことは書かれていたかな。坂口は自分の部屋に行って、ボクたちが運んできたカバンを持ってきた。坂口のノートはむしろきれいだった。字の大きさが統一されていて、方眼紙じゃないのに乱れなく小さな文字が詰め込まれている感じ。二人はお互いのノートがどんな具合かなんてそんなことを気にしている様子はまったくなかったけれど、宿題を一緒に始めた。ボクだけがゲームを続けるのははばかられたので、ボクも、自分のきったない字を二人に見られるのは嫌だったけれど、自分のノートを取り出して数学の宿題を一緒に解き始めた。弁当を隠しながら食べるのと同じようにノートを隠しながら宿題を解く様子は滑稽だったろうなって、恥ずかしく思わずにはいられない。
坂口は突然立つとおねえさんの部屋へ向かい、ドアをノックした。
「おねえちゃん、ちょっと教えてよ。」
坂口はおねえさんに教科書を見せた。おねえさんはボクと広斗がいるリビングにやって来て難しい問題の解き方を説明してくれた。それはボクにとっても分かりやすい説明だった。
「さすがですね、ありがとうございます。」
同級生の林や吉野に対する冷たい言動からは想像できない好青年の広斗がそこにいた。
「どういたしまして。」
おねえさんも女神の微笑みを見せてから部屋に戻ろうとしたとき、おばさんが声をかけてくれた。
「ご飯、食べていって。二人とも、お母さんには連絡しておいたから。」
おばさんはボクたちの分まで晩ご飯を用意しておいてくれた。チキンカレーだ。甘くまったりとした味わいよりも、ボクの目の前に座ってるかわいい優子おねえさんがお皿によそってくれた白いご飯をこぼさないように、スプーンで音を立てないようにして食べることに緊張した。取り分けてくれたサラダもキャベツやキュウリやトマト、ウチで食べるいつものサラダと変わらないけれど今日ばかりは輝いて見えた。お客様用じゃない家族用の同じ椅子がほかにも二脚ほど残された大きなダイニングテーブルでおねえさんと一緒に夕食が食べられることが嬉しかったのに、緊張して食べている心地がしなかった。そして楽しそうな広斗のおしゃべりに、その笑顔に嫉妬した。
しばらくするとインターフォンが鳴った。坂口のお父さんだった。ビシッとしたっていうよりはピッとしたスーツ姿のおじさんはウチのハゲオヤジとは大違いに見えた。
「やぁ、いらっしゃい。今日は圭吾がお世話になったそうだね、ありがとう。」
なんか、カッコよかった。絵に描いたようにかっこいい家族がそこに揃っていた。おじさんが晩酌のビールを飲む姿もウチのハゲオヤジとはまったく違って、あんまりカッコいいんでもっと飲みなよとボクがお酌をしたくなるくらいだった。おじさんは子どもが増えたみたいで嬉しいとまで言ってくれた。大人数の家族に憧れていた、親戚の集まりはこの家ですることが多いからダイニングテーブルは大きめ、椅子も多めに用意してあるんだなんて話してくれた。
食事の最後にはおばさんがリンゴを切り分けてくれた。もうそんな年齢じゃないのに、ボクたちにはウサギの形に切ってくれたりもした。なんだ、坂口の家でも普通に普通のリンゴを食べているじゃないかとボクはおかしく思ったけれど、笑うのはなんとか我慢できた。それからおばさんが淹れてくれたほうじ茶はなんだかほろ苦くって美味しかった。
お腹もすっかり膨れたところでおばさんは、お酒を飲んでしまったおじさんではなくて、おばさんが車でボクと広斗を送ってくれると言った。広斗は車で送ってもらうほどの距離ではないと一度はやんわり辞退した。ボクのうちは本小の向こう側でって説明したら、じゃあやっぱり送っていきたいし、山井くんの家は途中だからぜひ一緒にってことになった。
乗せてもらった自家用車は高級そうには見えなかったけれど、ワックスがきれいにかけられているのは分かった。ボクはなんだか坂口の革靴を思い出した。車の中もやっぱり清潔だった。おばさんがキレイ好きなんだろうってボクは確信した。坂口も一緒に助手席に乗って、広斗とボクが後ろに座った。
広斗の家は本当に近くって、車に乗ったことがむしろ面倒なんじゃないかと思うくらいだった。広斗のおばさんが、玄関前の自動車の音に気づいたのか、出てきて坂口のおばさんにお礼を言ってた。その間、坂口は助手席から後部座席へと移ってボクの隣に座った。
「みんなで車で出かけたりする?」
「しない?」
「うん、二、三ヶ月に一回くらい、家族で買い物に行ったりとか。」
「うちもその程度だよ。」
たわいもない話だった。おばさんはすぐに運転席に戻ってきて、ボクのうちへと向けて出発した。
「えーと、本小の向こう側だったわね?」
「はい、内藤スポーツの道を左に曲がって、その先の三叉路をさらに左に行って」
「分かった。近くなったらまた言ってね。」
「はい。」
ちょっとした沈黙が心地悪くって、でもボクはおばさんにも坂口にもなにをどう話したらいいか分からないでいた。おばさんはちゃんとそんなことを察してか、ボクに質問を投げてくれた。
「うちのカレーどうだった?」
もちろん、こんなときにおいしくないなんて答えるヤツはいないだろうけど。
「甘くっておいしかったです。」
坂口も少し気になる様子で会話に参加してくれた。
「いつもは辛いの?」
「うちは中辛。オヤジの好み。」
「お宅ではソースとか入れる?」
「うち、醤油なんです。」
「へー。」
おばさんと坂口の声は揃って二重の「へー」だった。
「そんなに珍しいことじゃないと思うけど。」
ボクがそう言ったところでちょうどウチに着いた。あまり道順を説明しなかったけれど、マンションの手前の信号のところでタイミングよく停まれた。おばさんがわざわざ車から降りてくれたものだから、ボクは母さんに降りてくるようにインターフォンで呼んだ。母さんがエレベーターで五階から降りてくるまでの間もおばさんは話をしてくれた。
「いいマンションね。」
「そうですか?」
「長いの?」
「ボクが生まれた頃からだから、」
「一四年ね。」
「はい。」
そう答えたところで母さんが出てきた。二人が挨拶しあったりしてるところ、ボクが車の方を見ると、坂口は車の窓越しに「ま・た・あ・し・た」と口をパクパクさせてくれた。ボクは手を振ってやった。そんなことをしていたらおばさんが背中越しに声をかけてくれた。
「ありがとうね。」
ボクが返事をかえす間もなくおばさんは車に乗り込み、ボクはもう一度坂口に手を振り、車が出たところでお辞儀をした。顔を上げた頃には母さんがボクの背中に手をかけ、家へと帰って行ったんだったっけ。
翌日、坂口はいつもと変わらず登校した。おでこはまだ少しすりむいたままだったけれど、それ以外には変わりがなかった。吉野はさっそく謝ってた。謝られたほうの坂口が「なんで謝るの?」みたいな感じで、坂口らしくて周りのみんなが笑ってしまった。朝礼が終わると、河合先生は坂口を職員室まで連れて行った。担任としては黙って帰ってしまった生徒をほかの先生たちの前で注意する必要があったらしい。そのときもやっぱり坂口は「なんで怒るの?」みたいな感じで、むしろ周りの先生たちが拍子抜けしたようだった。
坂口は少し変わったヤツではあるけれど、悪気はないし、バカじゃないし、間違っても嫌なヤツじゃなかった。坂口が誰かの悪口を言ったりしてるのも聞いたことがなかったし、誰かとケンカしたこともなかったと思う。変わっているといえば憲男の方がずっと変わってたような気がする。だって、憲男にはイマジナリーフレンドがいたんだもの。
「来ちゃダメって言ったじゃないか。」
憲男のそんな呟きが授業中に聞こえてくるっていうことが週に一回くらいはあっただろうか。当時、憲男には「ぼくだけに見える友だち」がいるんだって、誰かだけにそう言ったらしかったけれど、もちろん憲男がそんなこと言ってたってことはクラスのみんなに知れ渡ってた。女子たちは憲男のことを「ファンタジー」って呼んで気持ち悪がってた。
「憲男がそう言うんなら、憲男にはちゃんと見えてるんだよ。」
坂口はあるときみんなの前でそう言った。それからだったっけ。憲男のことをからかうヤツは一人もいなくなった。ほかのクラスの誰かが憲男のことをバカにするようなことがあっても、みんながかばうようになった。そうなんだよ。坂口って、やさしかったんだよなぁ、すっごく。それに勇気があったし、正しかった。
やさしさは少し異常なくらいだったかもしれない。ある日、あれは佐倉先生の現代社会の授業のときだったように思うんだけど、バンっ!て音が教室に鳴り響いた。で、坂口が席を立ったかと思うと、ベランダに出てった。もちろん先生は注意したけれど、坂口にはそれどころじゃなかったんだろうな。鳥が窓にぶつかったんだよね。で、坂口は多分また空を眺めてたんだろう。鳥が窓に激突するところ見ちゃったんだろうなって思う。教室の中では泣き出す女子、それはもちろん樹里だったけど、坂口の後ろについていくヤツとかもいたけど、ベランダに血を流して倒れたスズメみたいの、例のきれいな折り目正しいハンカチを取り出して包んでやってから、また教室から駆け出して行ったんだったな。で、このときは保健室に駆け込んだんだった。保健室のミミちゃん、びっくりしちゃって…って、ボク、坂口のあとを広斗と一緒に追いかけて行ったんだ。ミミちゃんは吉池美々子なんてかわいらしい名前からは想像もつかないだろう随分と貫禄のある相撲体型の、多分五〇歳くらいのおばちゃんだったんだけど、おばあちゃんていう方が近かったかもしれないけれど、坂口があんまり必死に「この子診てあげてください!」なんて迫るもんだから困ってた。ミミちゃんは最終的に「土に返してあげましょう」って、焼却炉の近くにお墓を立ててあげたんだった。ほかにも数名、泣いてた樹里だろ、そのダチの高梨、それから数名の野次馬たちもいたっけ。教室に戻ったときには授業はすっかり終わってて、自分は無視されたって佐倉先生は随分怒ってたっけ。だからって河合先生に嫌味を言わなくたっていいのにってくらい、みんなの前でいびってた。そして坂口はこう言い放った。
「悪いのはぼくです。河合先生を叱らないでください。」
ま、もちろんこのあとしばらく坂口は河合先生のことが好きだなんて言われてたけど、そんなの少しだって気にする坂口じゃなかったし、ボクや広斗はそんなんじゃないって知ってた。
坂口にはスキな子なんているように見えなかった。アイドルとか一通りは知ってて、歌番組とかテレビドラマとかも見てるみたいだったけど、特にスキな芸能人とかもいないみたいだった。まぁ、身近にかわいいおねえさんいるしな。広斗みたいにモテるってことはなかったけれど。広斗は去年もバレンタインにチョコレートを一〇個以上はもらってた。内緒なって言いながら少し分けてくれたりするんだけど、まるっとそのままはくれないところが広斗らしいってゆうか、やさしいんだよな、広斗も。このボクでさえ、お母さん以外に一個だけだけどもらったんだった。南山さんが放課後にわざわざウチにまで来て、チョコレートくれたんだった。ホワイトデーにお返ししたけど、その前も後も一切話とかしなくて、二年になったら別のクラスになって、見かけることさえめったになくなったんだった。
後になって広斗に聞いたんだけど、小学校六年生のとき、同級生の女子が坂口にチョコレートあげたんだって。そしたら、あいつ、ホワイトデーの日の朝、教室にみんながいるところで「バレンタインにはチョコレートありがとう。」って言っちゃったって。で、その女子はその場で大泣きしたんだって。その女子が誰かは結局聞かなかったんだよなぁ。ま、すぐに卒業だったから、みんなもすぐに忘れた…なんてこたあないだろうけど、大した話題としては続かなかったみたいだ。多分だけど、一年のときも二年になってからもクラスが別だったんだろうな。ボクがその話を聞いたのも一度か二度で、たいした噂にもなってなかった。もしかしたらその女子は卒業した直後に引っ越しちゃったとか、私立の中学校に入学したとか、そんなんだったかもしれない。どっちにしても広斗はそういうところ、ボクに対してさえも口が固かった。
でも、女子の人気投票した日…、ほら、女子が家庭科の授業受けてるときに男子は技術の授業って、授業が男女で別れるとき、で、たまたま技術のタモッちゃんが家庭の事情かなんかで突然休んじゃって、自習になった日があった。そのとき、誰が言い出したのかなんとなく同学年の女子の人気投票になったんだ。男子って普段はあんまりそういう投票したりとかないんだけど…、ああ、そっか、三組の転入生がすっごい美人だったんだ。千倉さん…だったかな。で、千倉さんほどの美人がどうのとかいうヤツがいて、一組の早川だってとか、二組は誰だ?佐々木だってなかなかだぞなんていって、じゃあこの際人気投票してみようぜってことになって、無記名で投票したんだったな…。結局、三組の千倉さんの圧勝って結果だった。自分も千倉さんて書いた気がする。それまで見たことないような、まさに美少女って感じだったもん。広斗は…、教えてくれなかったんだよな、そういうの。だから意外に口固いってゆうか、シャイなところがあって。坂口は…、ま、聞いても教えてくれないだろってみんなアイツには聞かないんだった。ボクだってどちらかといえば坂口が誰の名前を書いたかよりは、広斗が誰書いたかって方がよっぽど気になったもん。なかには白紙があってそれが坂口じゃないかって言ってるヤツもいたんだけど、ボクは確かに見たんだよな。坂口、誰かの名前をちゃんと書いてたんだ。でも、誰の名前だったのか聞けなかったんだよな、なんとなく。
っていうのもさぁ、それが女子たちにバレちゃって、男子全員怒られちゃったんだよな、そんな投票なんかして!って。司会してたユータや一組の何人かで用紙はちゃんときれいに全部焼却炉で燃やしたはずなんだけど、なんだか一人の女子にバレちゃって…。ほら、こういうとき、女子の間で話が拡がるのって早いんだよなぁ。樹里はやっぱり泣いてたし。なんでこんなことで泣くの?ってことでよく泣いてんだよなぁ、泣き虫樹里。
でもこれ、みんながもういい加減忘れた頃、次の週になって技術の授業のときにタモッちゃんに蒸し返されたんだよな。
「お前らダメじゃないか、自習中に女子の人気投票したりして。」
「だってユータがさぁ!」
「ちげーよ、ケンケンだろー?」
「オレじゃないよなぁ、くわっちー?」
もう、みんなでお互いになすりつけ合ってた。
「だって千倉さんが美人なんだもんなー、岡野ぉ―。」
「前田は美優ちゃんがいんだよなー。」
ばらし合いまで始まってしまった。
「だからってさぁ、萩野はないよなぁ。」
「お前らいい加減にしろ。」
タモッちゃんが止めようとするのも聞かずに何人か続けた。
「だよなぁ、あのガリ勉はないよな。」
「うん。すぐ先生に告げ口するし。」
こういうとき、いかに萩野が男子たちに人気がないかが分かる。でも、誰か一人は萩野に投票したって事実もあって、みんなの興味をそそってた。タモッちゃんが止めるのなんて、もう誰も聞いてなかったんだよな。
「水野じゃないよなー?」
「ちがうよー。」
「まさかお前じゃないよな、坂口?」
坂口はこういうときは答えない。
「違うだろ。坂口は白紙だったやつだろ?」
「そりゃあ、ミミちゃんとは書けないもんなー。」
「次喋ったヤツ、職員室で正座させるぞ!」
タモッちゃんの怒鳴り声でおしゃべりが止んだ。坂口はそんなこともろともせず、いつもと同様に平然としていた。
その日の帰り、下駄箱の前で坂口と広斗と鉢合わせた。まぁ、三人とも帰宅部だから珍しいことでもなかった。でも、三人とものらりくらりと自由人だから、特に坂口と広斗は家も近かったんだけど一緒に通学するなんてことはなかったんだ。
「坂口、白紙だったんだろ?」
意外だった。あんなの、広斗の興味までそそるなんて。そして、坂口は平然と答えた。
「ううん。」
「書いたの?誰かの名前?」
つられてボクまで聞いてしまった。
「うん。だって、かわいいと思う同学年の女子の名前書けって言われたから。」
「それで?」
「だから書いたよ。」
「かわいいと思う子?」
「うん。」
広斗とボクは一瞬黙ってしまった。互いにどっちかが聞いてくれないかなって考えてたんだと思う。
ボクはゆっくりと三秒待ってから聞いてしまった。
「だれ?」
「え?」
イラっとしたのは広斗の方だった。
「だから誰の名前書いたんだよ。」
坂口はきょとんとした。意外なことを聞かれたみたいな、そんな表情をしてみせた。
「分かった。言うよ、俺も。」
広斗は続けて言った。
「っつーかさ、みんなで同時に言おうぜ。」
ボクはなんだか楽しくなってきた。一緒だと怖くないんだ。
「うん。せーので、みんなで同時に言おう。」
ボクら三人はいつの間にか腕を重ね合って円陣を組んでいた。下を向いたまま広斗が号令をかけた。
「せーの!」
「千倉さん!」
ボクら三人は同時に顔をあげて、お互いを見合って大笑いした。だって、おっかしくってしかたなかった。誰なんだよとかお互いに探りあって、三人が三人とも千倉さんて書いてて、それをほかのヤツらが全然違う女子の名前言ったり、先生が怒ったりまでしたことが思い出されて、笑ってしまったんだった。そしてボクらの結束はなんだか少し、前よりも強くなった。特に広斗は、坂口がほかのクラスのやつからからかわれるようなことがあっても、すぐにかばってた。合気道では地域で結構有名な広斗に逆らおうってヤツはそんなにいなかった。
でも、思えばこの頃気づいたんだよな。坂口って結構無難な線をいく。たまにすっとんきょうな言動があって変わり者だと思われているところもあったけれど、目立とうとしないっていうか、良くも悪くも目立たず「普通」でいようとしてたって風にさえいまだと思えるんだ。これって、あの頃、中学二年生だったボクたちにはどちらかというと珍しかった。だって一四歳って、みんな「自分らしく」とか「自分らしさ」というものを追い求め始める年齢といっても過言ではないと思うんだ。みんなそれぞれが「オリジナリティー」を求めて自分らしい言動をしようと努力し始める時期なのに、坂口はその逆で「みんなと同じように」とか、「自分だけ目立たないように」としていたんだもの。それはイジメを避けるための目立たない努力とはまた違って、なんだか「標準」になりたいような、そんな感じが強く取れたんだった。
将来なりたい職業は「公務員」って坂口が即答したこともそうだった。こういう質問って中学生に聞かないし、しかも二年生には特に聞かないだろうって思うんだけど、教師としてまだ二年目の河合先生が聞きたくてみんなに聞いたみたいだった。中学生にもなるといろいろ考えるところもあってみんな答えたがらないんだけど、萩野みたいにお父さんの跡を継いで医者になるって率先して答えるヤツもいた。柚川も家業のパン屋って躊躇なく言ってた。お母さんみたいな専業主婦って答えたのは…誰だったっけ…、えーと、意外な女子だったんだよなぁ。それから、剣持!当時はサッカー部で補欠だったのに野球選手になるっつってた。中学三年間はこのままサッカー部で頑張るけど高校に入ったら野球部に所属して甲子園行って野球選手になるんだなんて言い張った。クラスのみんながハイハイみたいな感じで聞いてたけど、坂口は特に否定もせずに剣持の話を真剣に聞いてるみたいだった。でも、自分に話をふられると、やはり坂口独特の平然とした調子で、
「公務員です。」
って答えた。そして河合先生どころかクラス全員がしらけてしまったんだったなぁ。別に公務員が悪いって訳じゃないんだけど、なんか面白味がないっていうか、将来に対する夢や希望が感じられないっていうか、あんまりにも現実的な答えだったんだよなぁ。
そういえばボクはあのときなんて答えたんだっけ…。ああ、坂口のすぐ後に指されて「会社員」て答えて、難を逃れようとしたんだけど、結局みんなから「ツマラナイ二人組」とか言われたんだったっけか。だって、ウチのハゲオヤジだって会社員だったんだけどなぁ…。
とどのつまり中学二年生とはいえ、あんまり将来のことなんて考えてなかったんだ。あんまりっていうか、正直にいうと全然。そりゃあ荻野みたいに父親のような医者になるって目標がはっきりしてて、そのためにいい大学に行く、だからいい高校にどうしても入りたい!みたいなのとは違うもんって、開き直ってたよなぁ。ちなみに萩野は私立中学の受験のその日に母親を亡くして試験を受けられず、致し方なく公立の本中に通うことになったってんで、そのガリ勉の度合いは並じゃあなかった。そんな荻野に比べたらボクなんて、ほんと、特別に得意なことやスキなこともなかったもん。さすがに三年になると少しでもいい高校に行って欲しいなんて親に言われて、なんとなく塾に通うようにはなったけどさ。バスに乗って塾に行くと、また違う景色が見えて新鮮ではあった。ほかの学校の子とも知り合いになったりしてさ。でも、「友だち」って呼べるほど親しくなる子がいなかったのは、ボク自身のせいかなぁっていまでも思ったりするんだよな。面白い話とかできないし、誰とでも気軽に話せる訳じゃなかったし。
本中では一年から二年にあがるときにはクラス替えがあったけれど、二年から三年にあがるときはクラス替えはなかった。公立とはいえ受験があるし、修学旅行だってあるし、まぁ、受験を控えた三年生がバタバタするなってことなんだろうなって思ってた。でもクラス番号は変わるしきたりになってたんだよなぁ。たとえば二年生のとき一組だったクラスは三年になると二組になったり、どの組がなん組になるかは毎年違ってて、担任の先生たちでクジ引きで決めてるんだなんて噂もあったくらい。これで体育とか技術の合同授業とかは組み合わせが変わるし、隣のクラスが変わるってことは少しばかり空気感に違いがもたらされはした。階段上がってきたとき、自分のクラスに行くまでの廊下で違う顔が見えるってーのは、やっぱり少しばかり違う空気が生まれるものだった。とくに、スキな女の子の顔が見えたりするとね。
担任の先生も変わることはあるんだけど、もちろん転任する先生も転入する先生もいるわけだし、ボクらのクラスは河合先生のままだった。転校生もなし。隣のクラスにはドイツから帰国してきたヤツがいて、日本の高校に入学する準備のために一年早く戻ってきたって噂されてたっけ。みんなから「ドイツ」って呼ばれてた。
ドイツとは塾で同じクラスになった。本名は桐原翔太っていう、うん、いいヤツだった。翔太ってファーストネームで呼べるくらい仲良くなった。翔太はボクのほかに友だちはできにくいみたいだった。少しだけなんだけど日本語が苦手みたいだった。頑張ってはいたんだけど。ほんの数ヶ月の間だけ、いまさらながらに思うと翔太はかなり努力したんだろうって思う。二、三か月も経つと日本語はかなり上達して、塾でもさっさと上のクラスに上がってしまった。
上がってしまった翔太のクラスには坂口がいた。ボクは坂口がいつから塾に通っていたのか知らなかった。聞いてみたら、ボクと同じで三年生になってから塾に通い始めたんだといつもの平然とした調子で答えた。あれ?言ってなかったけ?ぐらいの感じだった。塾でもやっぱり坂口は学校と同じで、寡黙に粛々と問題に取り組み、手も挙げないんだけれど、指されると正解なんだって。翔太も一目置いていた。
あるとき、翔太がドイツに住んでいたことを聞くと坂口はいつになく饒舌にゲルマン民族の大移動の話とかを始めてしまった。翔太は目を白黒させて、坂口のことを面白いヤツだと言っていた。ドイツ人でもそんなこと詳しく知ってるヤツいないって言ってたっけなぁ。翔太は現在のドイツはどうだとか、学校生活はどんなとか、こんな友だちがいたとかなんて話をすると、坂口は興味津々な様子で聞いていた。坂口は政治や経済的な質問をしているみたいで、ボクにはよく分からなかった。そんな事情でボクが静かになってしまうと、坂口は決まって例の、顎の前あたりで手の平を下に向けて水平にして首をチョップする癖を、あっちの方向を見ながら控え気味にではあるけどしていた。ボクはいつもそれに気づかないふりをしてやっていたんだったなぁ。
塾に行き始めて広斗と少し距離ができたのは、決して広斗が塾には行かなかったからじゃなかった。ボクは見ちゃったんだ。ある日、ボクはいつもと同じように、塾に行くためにバスに乗ってた。なんとなく窓の外を眺めてた。よく晴れた日ではあったなぁ。季節外れの市民プール、人はまばら、でも、その門の前あたりに広斗がいた。後ろ姿だったけれど、ボクが広斗を見間違えるはずがない。女の人と一緒だったんだ。だから気になって、バスが近くなったら誰か見えるだろうか、広斗より背が高いけれど河合先生じゃないよなって思いながら見てたんだ。そしたらそれは、優子おねえさんだった。坂口のかわいい優子おねえさんが広斗と二人で楽しそうに歩いてた。手をつないではいなかった、と思う。ボクがそう信じたかったのかもしれない。
ボクはもう塾どころじゃなくて、一番後ろの席には座ったけれど、先生の話なんてまったく聞こえてこなかった。ボクはなんだか裏切られた気になったんだったなぁ。あのとき千倉さんて言ってたくせに!とも思った。それは自分も、まぁ、そうだったんだけどさ。そしてそれを、あのとき市民プールのところで優子おねえさんと一緒だった?って広斗にも、もちろん坂口にも聞けなかった。そんな自分に対して余計にモヤモヤ、いらっとしたんだった。聞けない自分が悪いんだって分かってて、それでなんだか…、広斗が近くにいればいるほどイライラが募ってしまって…、なんだか距離を置くようになってしまったんだったなぁ。ほんと、ツマラナイなぁって、情けないなぁって、随分、自己嫌悪したんだったなぁ。
でも、あるとき坂口と塾の帰りに一緒になって、家の方向も違うのに、夜も遅いのに、まだもうちょっと坂口と話がしたいだなんて言って、アイツの家の近くの方まで行っちゃって、それで思い切って聞いたんだった。
「おねえさん、元気?」
「うん、元気だよ。」
「おねえさん…さぁ、付き合ってる人とか…いるのかなぁ?」
「ん?…う〜ん…、どうなんだろう。」
「どうなのかなぁ。」
「高校二年生だし、付き合ってる人がいて…普通?」
「おかしくはないよね。」
「そうだよね。」
「いるの?」
「う〜ん…、いないとおかしい?」
「おかしくはないだろ?」
「だよね。こんどさ、おねえちゃんに聞いてよ。」
「ボクが?」
「うん。」
「なんだよ、それ!」
ボクと坂口はこんな感じで話にならずにお互いハハハって笑って別れたんだったなぁ。
ある日、塾が終わってバスに乗ったら坂口が乗り込んできた。翔太は一緒じゃなかった。いくつかのバス停を過ぎた頃、ボクの隣の人が降りて、坂口はボクに気づいて体良く隣に座った。バスの中はそんなに混んでなかったけれど、同じ塾の子も同じ学校の子もまばらに数人見かけた。こんなときは無難な話しかできなかったんだ。壁に耳あり障子に目ありじゃないけれど、聞こえてくる他人の話は面白いもんだし、みんなよっぽど暇なのか、噂が早まるのは超高速だったから。
「翔太は一緒じゃなかったの?」
「うん、おにいさんと駅で待ち合わせるって。」
「おねえさん、元気?」
「元気だよ。ああ、おねえちゃんね、付き合ってる人はいないんだって。」
「聞いてくれたの?」
「んー、お母さんと話してた。」
「なんだ。」
ボクは努めて嬉しそうな表情をしないようにした。
「ワレワレ…、あ、うんっと、ぼくたちはまだ早いもんね。」
「ん?」
「受験生だしさ。」
「うん?」
「今日の授業どうだった?」
「いつもどおり。難しかったに決まってんじゃん!」
なんて塾で出されたむっつかしい問題について話しているうちにバス停に着いてしまったんだった。
それでもボクは、降りたバス停から家までスキップして帰ってしまったんだったなぁ。だって、あのかわいい優子おねえさんには彼氏はいないって分かったんだもの!
三年生にもなると夏休みでも塾の夏期講習なるものがあった。ボクはあんまり興味はなかったんだけれども、「どうせたいしてやることないんだし、夏休みの間毎日じゃないんだから」と母親に言われてすんなりと行くことにしたんだった。翔太も、坂口も夏期講習を受けることになっていた。相変わらず二人はボクよりは上のクラスだったけれど、やっぱり広斗はきてなかった。それまでと同じで夏休みこそ合気道の練習に勤しむんだと言っていた。合気道では有名な昂明大学の付属高校の合宿に参加するんだって言ってた。またもや広斗がなんだか遠くに感じられたんだったなぁ。
夏休みのまん真ん中、登校日に広斗の姿がなかった。河合先生に言われて坂口が広斗の家に行くことになって、なんとなくボクまで一緒に行くことになった。広斗の家は一軒家。とは言ってもそんなに大きくはないし、どちらかっていうと古めかしかった。
「ごめんなさいね、せっかく来てくれたのに。」
玄関先でおばさんがボクらに言った。広斗はなんだが具合が悪いんだって。ちょうどそのとき、妹の恵美ちゃんが帰って来た。
「お兄ちゃんたらまだグズってるの?」
「恵美ッ!余計なこと言うな!!」
階段の上からドタドタと広斗が降りて来た。
「この子ったら、パジャマのまんまで!」
広斗はパジャマ姿だった。それを見て坂口とボクは笑ってしまった。恵美ちゃんとおばさんも笑ってしまった。そして、広斗も恥ずかしそうにふふふって笑い出した。
なんでも前の週に高校で練習試合があったんだって。その中でも一番下っ端で、どう見たって強そうに見えない体格の小さい人にこってんぱんにやられてしまったんだって。その人はいっつも練習の最後まで残って体育館を隅から隅まできれいに雑巾がけしてるような人で、練習はろくにさせてもらえないで先輩たちどころか同学年の人たちからも雑用を押し付けられてこきつかわれてるんだと思ってたんだって。広斗はよりによってその人に負けてしまうだなんて、想像もしなかったって。合宿の前半最終日だったからまだマシだったけれど、この調子ではとても後半は参加できないなんてことを涙目で言ってたんだったなぁ。
「なあんだ。」
坂口はいつもの平然とした様子で言ったが、広斗はむっとしたんだった。ボクだって坂口の言い様にビックリした。
「なんだって、なんだよ。」
「そんなの、後半の最終日にはやり返せばいいじゃないか。」
確かに、坂口の言うとおりだった。
「…そうだなって、言いたいんだけどさぁ。」
「言えないの?」
恐る恐るボクは聞いた。
「だって、」
「だって?」
「…こってんぱんだったんだぜ、ほんと。」
「じゃあ、こってんぱんに、やり返せばいいんじゃないの?」
「って言われてもさぁ、簡単じゃあないぜぇ。」
「あったりまえじゃん!」
「そーだよ!なにごとも簡単になんていかないよ。」
「そりゃあそうだけどさぁ…」
「なんだよ、広斗らしくないなぁ。」
「だってさぁ、」
「だって?」
「…強かったんだ、本当に。澤井さん。」
「そうかもしれないけどさぁ、ボク、知ってるよ。広斗だって強いじゃん。」
「…そう…だよなぁ。」
「そーだよ!広斗、強いよ!」
「そうだ。俺、強いんだった!」
で、最後は三人でハハハって笑ってお別れしたんだった。このときもまた腕を重ね合って円陣を組んだんだったなぁ。そうなんだよ。坂口がいると、最後はなんでも「ハハハ」で話が済むんだったなぁ。
なんで今日はこんなに坂口のことばっかり思い出すのかって言うと、ここに坂口がいないからなんだ。
広斗は昂明大学の付属高校行って、合気道ではインターハイにも出て、大学もそのまま昂明。卒業しても実業団で合気道やってた。怪我をして実業団を辞めることになったなんていうのは風の噂に聞いてたけれど、元気そうで良かった。やさしい奥さんと女の子に支えてもらってるみたいだ。そっか。広斗と会うのはヤツの結婚式以来なんだけどさ、もうすっかり親バカ丸出しだけどなぁ。まぁ、しょうがないんだろう。いまは自分の経験を活かしてリハビリセンターで相談員やってるんだって。
でも、広斗は坂口のことを覚えていなかった。
「は?坂口?誰それ?」
「誰って、広斗、坂口とは南小でずっと一緒だったろ?」
「誰かと間違えてないか?」
「坂口圭吾だよ。家も近くだろ?」
「う〜ん…。」
そこへ翔太がやって来た。中学では別のクラスだった翔太だけど、同じく別のクラスだったユータが樹里と結婚したっていうんで、でも自分だけ別のクラスから参加するのは気が引けるっつってユータが無理に連れてきたのがたまたま翔太だった。
ボクは翔太と会うのも随分久しぶりだった。翔太は私立のエリート校に進み、大学もいいとこに行って、いまはドイツと日本を結ぶ貿易商で得意の語学を活かしてるんだそうだ。奥さんは翔太を追いかけてやって来たドイツ人なんだって。もうすぐ子どもが生まれるんだって、ものすっごい嬉しそうに話してる。そんな翔太も坂口のことをまったく覚えていなかった。
「塾で同じクラスだったろ?ヨーロッパの古代文明とかにも詳しかった、ちょっと変わったヤツ。」
「いたかぁ、そんなの?」
翔太だけじゃなくてみんながボクは酔って変なこと言い張ってるってからかい始めた。
「三〇にもなって自分だけに見える友だちがいるのか?」
憲男にそう言われるとみんながドッと大爆笑した。
ボクはむきになった。だれかが話のネタとして持ってきた卒業アルバムのページを一枚ずつめくり、端から端までていねいに見ようとした。写ってるヤツ、一人ひとりを指差して確認した。千倉さんだろ、南山さんだろって…。でも、いろんなヤツが邪魔するからじゃなくって、確かに坂口の姿はまったくなかった。卒業アルバムに生徒が一人載ってないなんて、どうかしてる。ちょこちょこと茶々を入れるヤツがいたけれど、ボクはすべての写真をちゃんと見たはずだ。坂口が撮影の日に休んだんだったらその事実を忘れてないし、休んだとしても端の方に縁取りされて掲載されているはずだ。ここに坂口いたよって光景にも、運動会のそれにも、美しい夕焼けを背景にした放課後のベランダにも、保健室のミミちゃんと一緒の写真にも…アイツの姿はなかった。いや、アイツだけの姿がなくって、名前もなくって…。全員の集合写真にさえアイツがいないなんて、そんな変なことがあるもんか!って思ったけれど、事実としてアイツの姿も名前もなくて、そこにいた誰もがアイツのことを覚えていないんだった。なんだかそれはとても変で、とても寂しくて、でも寂しいっていう以上に、この寂しい気持ちを共有できる人がいまここには一人もいないってことがとてもボクには奇妙に思われた。
河合先生!いくらなんでも担任の河合先生は覚えてるだろうと思ったんだけど、どういう訳か先生までが坂口のことを覚えていなかった。なんて薄情なんだ。同級生のみんなばかりじゃなくて担任の先生までが坂口のことをまったく覚えてないだなんて。ヒドイじゃないか!ほろ酔い姿の先生はなだめるようにボクにこう言った。
「あのねぇ、私が大事な生徒を一人でも思い出せないなんてことあると思う?」
そうは言っても事実として忘れてるじゃないか!とは思ったけれど、ボクは酔っ払いを相手にまともな話をする気にはなれないでいた。
ボクは憤慨した。そして思い出した。広斗は優子おねえさんのことなら覚えてるんじゃないかって。
「市民プールのところ、二人で楽しそうに歩いたことあるだろ?」
「やめてくれ、お前。優子おねえさんって…、それ、あれだろ?市民プール、閉まってた時季だろ?」
「あ、うん。閉まってた。」
「市民プールの隣にさぁ、お好み焼き屋あったじゃんか。」
「稲田さんだっけ?」
「そお!稲田さん。あそこのおねえさんだよ。」
「稲田さんとこにおねえさんなんかいた?」
「いたんだよ。当時、大学生のおねえさんが。一人暮らしで稲田さんとこは出てたんだけど。」
「で?」
「で、夏の間はうるさいから家ってーか店には近寄らなかったんだけど、プールが閉まってるときはたまにおばさんの様子見に帰って来てたんだよ。」
「なんでそんなこと広斗が知ってたんだよ?」
「だって、ユウちゃん、合気道で一緒だったし。」
ボクはなんだか納得いかなかった。あれはたしかに優子おねえさんだったけどなぁ。だって、当時のボクが優子おねえさんをほかの誰かと見間違えるなんて、そんなことがあるはずはなかった。
だけど、同窓会では三〇歳そこそこになったみんながやけにはしゃいで楽しくしていて、お酒も随分まわって、それ以上探る気にはならなかった。
坂口がそこにいないことこそがボクには残念で寂しかったけれど、酒のせいだろうか、それなりにあの頃を懐かしんで楽しんでる自分もいることを否めなかった。
酔いを覚ましつつ実家に帰る道すがら、やっぱり坂口のことが気になった。みんながまったく坂口を覚えていなかったことがどうしても腑に落ちなかった。一人で歩く夜道にて、なんだかセンチメンタルがボクを襲ってきたのかもしれない。夜空には月も星も輝いていた。坂口はいろんな星座にも詳しかったなあって、そんなことまで思い出した。あれがリゲルで、こっちがベテルなんとかだったっけ…。
家に着いて風呂からあがると、キッチンで母さんがほうじ茶を淹れてくれた。最近は緑茶よりもほうじ茶がいいんだって言ってた。なんだか懐かしい気持ちがボクの中でまた湧いてきた。そして坂口のことを聞いてみたけれど、やっぱり母さんまでが、もはやボクの期待通りに坂口のことはまったく覚えていなかった。
「広斗くん以外に友だちなんていたの?あー、あの子かしら…。えっと、なんて言ったっけ、ドイツくん!じゃなくって、えー、…翔太くん?」
そう聞かれると、それ以上はもうなにも言う気にならなかった。
隣の居間では父さんがインターネット配信を見ていた。最近、父さんは晩酌をしながら、昔懐かしいテレビ番組やなんか、特に父さんが子供の頃にじいちゃんと一緒に見ておぼろげに記憶してるお笑い番組とかをネット配信で見るのが楽しみになっているそうだ。パソコンの画面には昔のお笑い芸人らしき人が映っていた。
「ワレワレハえむなは星人ダ。」
って、そう言ってる。その手は水平チョップでもかますように自らの首を何度も小刻みに叩いていた。この首を叩くタイミングで、声が途切れ途切れに面白おかしく聞こえるんだった。テレビに映ってる観客席の大勢と一緒に、少し酔った父さんはガハガハと笑っていた。オモシロイって以上に懐かしいんだってさ。ボクにとっては、なんだか、父さんのそれとは違う、その動作そのものがとても、とても懐かしく思われた。
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