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僕は、朝から気分を害された。
何によってかと言えば、学校の前の横断歩道に設置された信号機によってだ。僕がちょうど、横断歩道を渡ろうとしたときに、青く光っていた信号機が点滅しだしたのだ。日常では慣れない光の点滅に、こころなしか目も疲労を訴えているような気がする。
点滅し始めた青信号を見て、はやばやと横断歩道を渡っていく人たちもいるけれど、僕はその場に立ち止まる。
それは、けして点滅している間に渡るのが危ないと思っているからではない。僕が、この点滅が嫌いだからだ。
赤信号なら、何も考えずに止まればいい。青信号なら、何も迷わずに渡ればいい。けれどもこの点滅は、止まればいいか、進めばいいか、明確な答えを用意してくれない。進むも止まるも、キミ次第だよ、と自分の判断を試されているような気分になる。
そして、どちらの判断を下すのも面倒になって、判断を放棄して立ち止まるのだ。
そうして、しばらく待っていると、青信号の点滅はやみ、僕に止まれと命令する赤い光がともり、また消えて青い光が僕に、行けと命じる。
その実にはっきりとした、二つの光にほっとして、僕は止まり、そして学校へと入っていく。
教室に入ると、僕の隣の席で、健太がいつも通りマンガを書いているのが見えた。今日は、どんなマンガを書いているのだろう。
気になって、健太の背後に回り、のぞいてみると、ノートの中で、ハートのついたかわいいステッキを持った女の子が怪物と戦っていた。どうやら、魔法少女ものの話みたいだ。シャーペンしか使わないで描かれたマンガではあるが、動きのある構図と大胆なコマ割りによって、ぐっと引き込まれるような迫力が出ている。思わず荷物も置かず、着々と進む作画作業を見続けていると、ふと健太が後ろを振り返り、僕に気づいた。
「うわあ!びっくりした。いつからそこにいたの?」
「今さっき、教室に入ってきたところだよ。勝手に見て、ごめんね」
ううん、大丈夫だよと答えながら、健太はそそくさと、机に広がったノートとシャーペンを片付け始めた。
せっかく上手なのだから、もっと見せてもいいように思うけれど、人に見られているとわかると、健太はすぐにマンガをしまってしまう。まだ見たいと言うのも、はばかられたので、大人しく僕は健太の背後を離れ、自分の席に座ることにした。少し待てば、健太がマンガを描き始めるのではないかと期待していたものの、当の健太はそんな様子は見せず、机に突っ伏して寝始めたので、諦めた。
朝のホームルームが始まる5分前になり、いじっていたスマホから顔をあげようとしたところで、パッシーン!というハエたたきで思い切り叩いたような小気味のいい音が僕の隣で鳴った。
見ると、だぼだぼのジャージを着たガタイがいい男、勇気が健太の背中に手を置いている。
「おはよォ!なぁに寝てンだ」
必要以上に近い距離で話しかけてくる声を聞き、健太は、背中をさすりながら起き上がった。どうやら寝ていた健太を勇気が、文字通り叩き起こしたらしい。
ニヤニヤと楽しそうに笑っている勇気とは対照的に、健太の笑みは、どこか苦痛を伴っているような気がする。
それに気づいていないのか、勇気は話を続ける。
「あ、そうだ。昨日、書いてるって言ってたマンガ、見せろよ。健太のマンガ、どんなのか気になるわ」
健太の返事を待たずに、勇気は健太のリュックをあさり、ノートを取り出して読み始めた。
「ちょっと、待ってよ」
困ったように、勇気の読む手を止めようとする健太。それを完全に無視して、勇気は1ページ、2ページと読み進めていく。
おい、やめろよ。健太が嫌がってるだろ。
口元から出かかった言葉が、直前で止まる。健太が止めてと言っているわけでも無いし、健太がどこまで嫌がっているかなんて、本当のところは、僕にはわからないじゃないか。
チカチカと、頭の中で青信号が周期的に点滅する。
そして僕は、いつも通りそこで立ち止まることにした。
数ページ読み進めた勇気は、おもむろにノートを机に乱暴に置き、口を開いた。
「うーん。俺、こういう目がデカい女がメインの漫画とか、ちょっとキモくて無理だわ。お前、こんなの描いてたんだな」
ビクッと健太の肩が震える。そんな健太の様子に勇気は全く気付かない。
「こんなのじゃなくてさァ、もっとかっけぇヤツ書こうぜ。ドラゴンボールとか読んだことねェのか?」
そう言って、勇気は何も面白くないのにギャハハと笑う。そして、その勢いで健太の背中を何度もたたいた。
ひとしきり笑ったあと、勇気は何もなかったかのように自分の席に戻り、近くの人たちと、今日の小テストの範囲だとか、他愛のない会話をし始めた。
背中を叩かれている間も、勇気が席に戻るときも、健太は何も言わなかった。
ただ、ギュッと唇をかんで、何もない教室のすみを呆然と見つめ続けていた。
そのあと、午前の授業が終わり、昼休みに入ると、いつのまにか教室に健太の姿はなかった。
午後の授業は、僕の苦手な英語と数学だったので、内容を理解することより、眠気と戦うので手いっぱいだった。眠気で意識がおぼろげな中で、帰りのホームルームを終え、帰ろうと教室のドアを開けようとしたところで、誰かがギュッと僕の手を掴んだ。
振り返ると、担任の池西先生がつぶらな瞳でこちらを見つめている。子犬を思わせる可愛らしい顔立ちながらも、その表情は真剣そのものだ。
「ごめん。ちょっと聞きたい話があるんだけど、このあと時間大丈夫かな」
池西先生の言葉を聞いて、一気に眠気が吹き飛び、意識がはっきりしてくる。たぶん、健太の話だろう。でも、なぜ僕に聞くんだ。僕以外にも、見ていた人はいるはずなのに。きっと僕なら、頼めば話してくれると思っているのだろう。なんだか、なめられているような気分で腑に落ちない。でも、拒否するのも面倒だったので、僕は、先生の思惑通りに、大丈夫です、と一言答えた。
池西先生のただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、クラスメイト達はそそくさと逃げるように教室から出て行き、教室には僕と先生だけが残されていた。
立ち話は辛いだろうから、座っていいよと先生が言ってくれたので、ありがたくドアの近くの席に座らせてもらう。僕が座ったのを確認すると、先生も僕の隣の席に座り、ゆっくりと口を開いた。
「今日、健太さんが早めに帰ったでしょう。それについて、何か知っていることがあれば教えてほしいの」
想定通り、健太の話だった。でも、実のところ先生も、なんとなく原因はわかっているはずだ。健太は、執拗に勇気にいじられていた。昼休みに他のクラスメイトが楽しそうに騒ぎあう中で、イヤホンをして音ゲーをしていることを、移動教室の時にいつも一人で移動していることを、誰も知らないアニメのラバーストラップをリュックにつけていることを、勇気はみんなの前で大げさにいじっていた。それは、先生も生徒も知っている事実だ。
別に、みんながそれに賛同していたわけでは無い。かといって、反論する人間がいるわけでもなく、ただ、勇気だけが、毎回いじられて困った顔をする健太を見てうれしそうにしていた。
「少しでも知っていたら、教えて。知っていることがあれば、あなたなら必ず答えてくれると思って、あなたに話を聞くことにしたの。お願い」
沈黙を続ける僕に、先生が瞳をうるませてさらに頼んでくる。しかし、かえってそれは、僕には白々しく感じられた。
先生が事情を聞きに来るのも、信号が変わらないかなと待っているのと一緒で指示待ちなんだ。このままではいけないと思うところまでは良いが、最後にあともう一つ他人から背中を押してもらえなければ、最後の行動には移れない。一歩を踏み出させる手伝いをしているように見せかけて、さあ押してくれと自らの背中を差し出している。これを偽善と呼ばずに何と呼ぼう。こんな偽善に手を貸してはならない。だから、僕は口を開かない。
数分の沈黙がさらに流れた。
「せめて、知っているか知らないか言って」
先生は、諦めたような表情になって言った。
そう聞かれたなら、答えは決まっていた。
「すみません。わかりません」
僕の返答を聞いて、しばらく先生は黙ってうつむいていた。偽善に打ち勝った、耐えきったと思うものの、達成感は全くなかった。握りしめた手ににじんだ汗が、気持ち悪くてしかたがない。
「そっか。じゃあ、また何か気づいたら教えてね」
そう言って、先生はゆっくりと教室のドアを引いて出て行く。引き戸がカタカタと静かな音を鳴らした。
その音が妙に耳に残って、僕は一人残された教室で、しばらくそれを聞き続けた。
教室を出て、下駄箱に行くと、そこには勇気が待ち構えていた。見て見ぬふりをして歩き出すと、待てよ、と叫んで勇気は後ろから追いかけてくる。捕まると面倒なことになりそうなので、スピードをあげて歩くが、横断歩道の信号がよりにもよって赤だった。しぶしぶ止まると、追いついた勇気が後ろから声をかけてきた。
「なあ、先生に何か言ったか」
どうやら、この確認のためだけに僕を待っていたらしい。どこまでも不愉快な男だ。健太にも僕にも、話しかけないでほしい。別に、お前のことなんて誰も好きじゃないんだから。喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「いや、わかりませんってだけ答えた」
振り返って、平坦な抑揚でそう返事をすると、勇気は、そうかそうかと口を三日月のように曲げて笑っていた。
その表情は、見ていて鳥肌がたつくらい不気味で、早くこの場を離れたいと思った僕は、もう一度前を向きなおす。
しかし、信号は勇気の表情と同じくらいの不快感を催す、青の点滅をしめしていた。ついていない、本当についていない。大きくため息をついて、僕は、その場に立ち止まった。
「おい、青だぞ。渡んねーのか」
後ろから、勇気が不思議そうに言ってくる。イメージ通りだが、やはり勇気はこういう時に渡るタイプだったか。健太のこともそうだが、自分と違う人間を全然想定していないような彼の態度には、本当に嫌気がさす。こんな人間に、青点滅が嫌いだなどと言っても納得されないことは目に見えているので、それらしい理由でこの場を逃れよう。
「僕は、信号が青でも点滅しているときには、怖いから渡らないようにしているんだ」
「え、ちょっと待てよ。どういうことだ」
納得させるつもりで言った僕の言葉に、勇気はより一層困惑した表情を浮かべた。ここまで理解力がないとは思わなかった。正直呆れているが、わからないなら説明せざるを得ない。
「わたっている途中で赤になっちゃったら、ルール違反だし、最悪の場合、事故になっちゃうことだって__」
「いや、そうじゃなくて!そうじゃなくてさ……」
僕の説明を大きな声で遮り、勇気は困惑を通り越して、不気味なものを見る目で僕を見て言った。
「そもそも今、信号は点滅してないだろ」
…………………………え?
固まる僕を横目に、勇気は信号を渡り、視界から消えていった。そして、信号が赤になった。
もう一度、信号が青になったそのとき、既に信号は点滅していた。
ああ、わかった。僕は、自分の判断を試されるのが嫌だったわけじゃない。
ただ単に、止まっていたかっただけだったんだ。
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