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「あら、橘さんお引越し?」
「あ、はい。短い間でしたけどありがとうございました」
休日、お隣の濱田さんは、太ったお腹を隠そうともせず、珍しく玄関扉から顔を出してそう言った。彼女の姿を見るのはここに来た初日以来だ。
舞香は、あの事があった週末、ここを出て行く決心をした。暫く友人宅へ身を寄せる事にしたのだった。
「橘さん、お仕事は?」
「……会社、やめてちょっと勉強しようと思うんですよね」
「あらやだ、そうなんだ? なんの?」
濱田のずけずけと訊いてくる姿勢に少し恥ずかしそうに頬を染めて、舞香ははにかんだ。
「昔からの夢だったんですけど……、看護師の資格をと思って」
「あらー、人を助けるお仕事? いいじゃない! 若いって羨ましいわあ」
「はい! 頑張ります!」
舞香はきちんと部屋と自分の心を折り目正しく畳んだ。季節が更に寒く移ろうとするこの時期に決断をするのはかなり勇気がいったけれど、後悔だけはしたくない。自分は、人の命を救う仕事をしたいと思ったのだから。
「じゃ、濱田さんお元気で」
「もう行くの? うん、あなたもね! あ、……」
「ん?」
「なんかさ、上の階の人が言ってたんだけど、あなたの住んでた部屋ってあんまりいい噂ないみたいなのよ? 今だから言っちゃうけど」
「……そうなんですか」
「うん。心霊現象とかあるんだって。あなたも何かあったんじゃない?」
人の心を覗き込むようにして、濱田は訊いてくる。その問いかけに舞香は口角を上げる。
「いえ、私にとってはとても良いお部屋でしたよ。これ以上はないってくらい」
「え? あ? そう?」
意外だと言わんばかりの濱田の態度を横目で見ながら、舞香は埃の溜まった階段を降りた。荷物をしっかりと持って、凍てつきそうな空を見上げた。冬木立がまるで影絵のように上へ上へと張り付いている。これから冬本番だ。
きっと圭太は今でも見守っていてくれる。
そんな気がしてる。
舞香は大きく一歩を踏み出した。
[完]
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