第五話 舞と空手

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第五話 舞と空手

「舞いいっ!いけっ!ほらっ!手出せっ!」  今も忘れない、そのキンキン声。  それは、舞が小学一年生の秋。  通っていた無門会空手。その地区大会、小学校低学年の部でのこと。  他の親たちの声援の中に、その声はハッキリと聞こえていた。  自分の母の声。    上段回し蹴り一線。  被っていたシールド付きヘッドギアに見事にヒット。バチーンッ!と音を立てた。  よろめき、片膝を付いた舞は、その時点で“効果″。   「立てっ!舞っ!何やってんのっ!」  更に大声で叫ぶ母。  立たない舞に、“有効″が告げられる。  ここで立たなければ、舞は一本負けとなる。  しかし、舞は畳の上に両手を付いた。戦意喪失。 「一本!」  張りのある主審の声で、その試合の決着が着いたことが告げられる。 「はい、白の一本勝ち!お互いに礼!」  力なく、十字を切り、畳を後にする舞。  そんな自分の元に、小走りで駆けつける母。  母のその顔は、深く眉間に皺を寄せ、鬼の形相だった。 「舞っ!何であそこで行かないの!?」  母親は、目の前に来るなり屈み、舞の両肩をガッチリと掴み激しく揺すった。 「あそこで行かなきゃダメでしょっ!何のために練習してんの!ね!聞いてるのっ!」  道着越しだが、食い込む母の指が痛かった。  無門会空手の大会は年二回。  春の交流戦と、秋の全国大会を懸けた地区予選だ。  舞はこの年、春の大会でも何も出来ずに一本負けに終わっていた。  空手は習いたかったわけではない。  幼稚園の年長になる頃、母に言われて通わされるようになった。  武道による礼儀作法を学ぶこと、また心身ともに強くなるためなど、理由は幾つかあったのだろうが、結局のところ、ママ友たちの間で、空手や柔道が流行っていたのが理由だ。  自分の母親が、あまり好いていないグループの娘が、同じく無門会空手の年長の部で全国大会に行ったことを自慢していたことで、自分の娘も負けるものかと通わせたというのが、本音だったのだろう。  この時の舞は、そうとは知らなかった。  春の大会で負けて以降、舞の母は、ジュニア用のミットやインターバルタイマーなど買い揃え、道場の稽古以外にも休日に、外や体育館の一般開放日に特訓をさせた。  その上で初戦敗退だ。  母親の苛立ちは、前以上に凄かった。 「お母さんね、日曜日もあなたに付き合ったのよ!何で強くなれないのっ!」  舞は、下を向いたまま、声も出さずににいたが、込み上げる気持ちに耐えかねて、涙が溢れ出した。  負けたことに対して悔しくて泣いているのではない。  ただただ、悲しいのだ。  稽古は真面目にやっている。決して手を抜いたつもりはない。実際、道場の組み手では、師範(せんせい)に褒められることもあった。  しかし、稽古のそれと、試合とはいうものは全く異なる。  憎くもない相手と、本気で殴り合う、蹴り合うというのは、なかなか難しいもの。やられる怖さもあるが、相手を傷つける怖さもあり、実戦さながらの真剣勝負の感覚は、いくら稽古を積んでも学べるものではない。  そこに向き不向きが生まれる。  才能はあっても試合には勝てないタイプ、稽古では雑だが試合ではまったく臆さないタイプなど、個々人で様々だ。  舞は、空手をやりたかったわけでないが、稽古は好きだった。技の理屈を知り、技術が使えるようになることに喜びを感じていた。  しかし、試合の空気には馴染めず、相手を前にすると頭が真っ白になってしまうのだった。正直、会場内の声もまったく聞こえなくなる。  母の声を除いて…。 「何をメソメソ泣いてるの!悔しかったら強くなりなさいっ!聞いてるっ!?」  叫び続ける母。  舞は、母に、ただ“頑張ったね″と、一言欲しかったのだ。  当時は訳が分からなかったが、今となってはそうだったのだろうと、舞は思う。 「…あの、お母さん」  背後から、男性の声で呼ばれる舞の母親。  振り向くと、ワイシャツに赤いネクタイを締めた、中年男性がいた。  大会の審判を務める、無門会空手の関係者であることは見て分かった。  舞の通う道場の師範ではないが、無門会系列の別の道場で責任者をしている、数見(かずみ) 誠一(せいいち)であると知るのは、この日から程なくしてのことだった。 「何です?」  眉間に皺を寄せたまま、尋ねる母親。  数見は、その表情を見るなり、苦笑しながらため息をついた。 「試合に…あの場に立ったのは娘さんですよ。お母さんじゃない」  数見の言うことに、怪訝な顔をする母親。 「は?」  その態度は、あからさまに悪い。  だが、数見は話を続ける。 「失礼ですがお母さん、あなたも空手を?もしくは何か武道か…格闘技でも」 「…いいえ」 「そうですか。であれば、解りにくいかもしれませんが、この畳の中の四角く囲った赤い線。この中に立つことがどれだけ厳しいか…、子供の試合も、大人の試合も、スケールは違えど、同じです」 「何を仰りたいんですか?」 「いえね…小さな子、それも女の子が、その中に立った。それだけでも凄いんです。精一杯やったんです。それを、そう責められては可愛そうです。褒めてあげて欲しいんです」  数見は眉を八の字にしながら、舞の母にそう訴えた。  だが母親は、娘から手を離し立ち上がると、首を傾げながら言い返した。 「どちらの師範(せんせい)か存じ上げませんが、これはうちの教育の問題です。口出さないでもらえますか?」  数見は口をへの字にすると、目を細めて首を横に振った。 「それは…失礼しました」 「はい、解ってもらえたなら結構です」  はんっと、勝ち誇ったように鼻息を荒げ、再び娘の方を向こうとする母だったが、数見は“まだ終わってない″と言わんばかりに手のひらを向けた。 「でも、あなたは空手の経験者ではない。確かに、私があなたの家のことに口出しする資格はないでしょうが、私は団体の看板を背負う一人として、その弟子の一人が勝手な理由で追い詰められることを黙って見過ごすつもりはないのです。少なくても、今この会場では」  二人のやりとりが、少し目立ったせいか、周囲の親子も、いつの間にかやりとりを見て聞き入っていた。  そのことに気づいた母親は、舞の手首を引っ張って、試合場からそそくさと立ち去った。  この日の試合、舞は膝を付いた後、立つことは出来た。ただ、もう闘いを続けたくなく、自ら試合を終わらせたのだった。  “どうせ勝てない″  “またお母さんに怒られる″  そのことで気持ちが一杯だった。  帰宅後、母は一言も口を聞いてくれなかった。 「お母さん…あのね」  イライラした顔で黙っていることが悲しい舞は、自分から話をするべく声を掛けた。だが母親は… 「うるさい!」  と、一蹴するだけであった。  娘が勝てないことに加え、会場にいた人たちの面前で、数見に恥をかかされたことにも苛立っていたのだろう。  それから舞は、自ずから母親に話すことが減り、殻に閉じ籠るようになっていった。  週三回だった道場の稽古は、週末のみになり、母ではなく、父親が送り迎えをしてくれるようになった。  そんなある日のこと、道場に、見覚えのある人物が来ていた。  数見だ。  数見は、舞が、とても上手に組み手をこなすことを知っていた。  それは年に何度かある、道場間での合同稽古で見た彼女の姿が、印象深かったからだ。  そして大会の時の、母親に責められていたことを気にして、どこの道場所属かを確認し、舞の通う道場に足を運んだのだった。 「押忍」  舞に向かって十字を切る数見は、大会の日とは違い、道着姿だった。  舞も、小さな声で“押忍″と返した。  数見は、自宅のある敷地の半分を常設道場にしていることを、舞に訥々と語り出した。  サラリーマンとして仕事もしているので、基本的に指導は、現役の選手や師範代に任せていることが多いらしいが、日曜は自身が稽古指導を行っているとのことだった。 「もし君がよかったら、毎週日曜日…俺のところでも稽古をしないか?」  両膝を付き、舞の目線に合わせ、優しい笑顔でそう尋ねてきた。  これが、後に舞を強く育て上げた師、数見との出会いになるのだった。
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