作家の卵が孵化する音

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   作家なんて大嫌いだった。  僕の知っている作家という生き物は、祖父だった。  染みついたタバコの匂いに、イライラすると畳を叩く貧乏ゆすりの音。  忙しなく動く万年筆は何年も一緒の古びたペンで、筆先はとっくの遠にひしゃげてしまっている。それが良いのだと、不機嫌そうに答えるあの顔が嫌いだった。  祖父が死んだ。  タバコの煙で白くなった空間で1人亡くなっていた。火事にならなくて良かったじゃないか。そんな事を言う母になんだか腹が立った。何故だかはわからない。    書きかけの文章は、新作の第二巻。  僕はこの続きを知っているが、気難しい爺さんが死んだことを喜んでいるみんなが気持ち悪くて教えてやらなかった。僕だって嫌いだったが、祖父が嫌いではなく、作家が嫌いなだけだったと気がついた。  僕が物語の続きをなんとなしに聞いた日、珍しく、祖父は原稿を見ながらではなく、僕の目を見てゆっくりと話をしてくれた。話の内容は、僕には難しくて珍紛漢紛だった。でも僕なりに、面白いとか面白くないとか、こんな話は僕でも書けるとかなんとか。出鱈目だけれど、ついそう答えてしまった。   「悔しいならば、書いてみろ。悔しいならば、まずはやってみろ。好きだとか嫌いだとかそんなくだらない事を言って他人の価値を決める前にお前がまずは書いて見れば良いさ」    祖父の顔は珍しく不機嫌そうではなく、穏やかで嬉しそうな顔をしていた。  僕の出鱈目な言い分は、悔し紛れの言葉に聞こえていたのだろうと今は思う。  あの時の祖父の声は、なんだか優しい音がしていた。  目に染みるほどの煙草の煙に燻されて、煙草の死骸に埋もれながら、僕は今、考える。  書きかけの文章は、幻の第二巻、その終盤。  書いてみろと言わんばかりに空白のその続き。  大嫌いだった作家は、今では僕の生き甲斐だ。  文章は好きだ。  文字が好きだ。  なんともいえない焦燥に駆られるが、文章を考えている時間は好きだ。  それでも手を出せずにいた祖父の小説。    嫌いだと、そう思っていた祖父の模倣をする事に小さな抵抗を感じていた。  あの言葉の意味は。  あの表情は。  僕はこの続きを知っている。  その意味は。    あの日感じた大きな不安は今は無い。  あの日に掴めなかった大きな恐怖はある。  書いてみろ、そう言わんばかりの空白を見る。  何を書けば正解か。  何を書けば不正解か。  それを判断してくれる祖父は、目の前にはいない。   「やってやるさ」  僕の中にあった殻がバリバリと破れる音がした。    
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