グリフォン

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「ああ……」 言葉にならない。 その時だった。シュッと勢いよく何かが噴き出した。 電源スイッチを切るように火だるまが消えた。 教授の足元に白い粉が積もっている。 「早く逃げましょう。ここは危ない」 教授は上着を脱ぎ捨てた。 「教授、火傷は?」 「ああ、携帯消火器だ。ここでは、こんなこと茶飯事なんでね」 そういうと壁のパネルを開いた。ボンベが並んでいる。 「その前に、消火器だ。消火器を持ってきてくれ」 矢作が指示を出す。 消火器の粉を浴びた教授が、 「それにしても何てことしてくれた。せっかくの私のコレクションが」 と言いながら肩を落とした。 「いいから、行くぞ」 二人は非常階段へ急いだ。 「あそこは、地下だったのか?」 「ええ。地下一階です。地上には出られませんが、水脈が通っていて地下水が流れていました。だから火事にも強いんです」 教授は淡々と答えた。 「じゃあ、あの男はどうやって脱出したんだ? 防火シャッターは下りていたはずだ」 矢作が聞くと、 教授が答えた。 「あの男ですよ」 彼はスマホを叩いて専用アプリで構内カメラの監視映像を再生した。 「セイ、セイ」と奇妙なヒップホップを踊りながら後ろ手で資料棚をまさぐっている。 「この野郎」 長谷部は青筋を立てた。男は何かを抜き取ってポケットに収めたのだ。 「柿沼。柿沼健一郎。手癖の悪い男でデータ転売の常習犯ですよ」 教授は前からマークしていたというのだ。 「それはいつからだ?」 「押しボタン自粛令が出るか出ないかの頃です」 柿沼は深圳ソバージュの熱狂的な推しで「あったら怖い『押したら本当に五億年』スイッチ」ショウの常連でもあった。 研究を休んでたびたび岡亦を観に行きたいというので半ば呆れつつ休暇届に判子を押していたと教授はいう。 そして、そのたびにASMRに関する研究資料の入ったUSBメモリスティックの手触りが変わるのだ。 「無断で持ち出して、原状回復している?」 長谷部が指摘した。 「そのつもりなんでしょうけど、データには改竄防止のデジタルIDが仕込んであります。世界中のどこにいようとサプライチェーンで追跡可能です」 「拡散上等ってわけか!」 長谷部は何か閃いたようだ。 「あったら怖いんじゃなくて、本当に『押したら本当に五億年』スイッチがあったら」 「うるせえ!先回りするな矢作この野郎。俺が今言おうとしたんじゃねえか」 長谷部に首を絞められた。 教授はずっと考え込んでいたが、こう述べた。 「私は一つの仮説を立てたんです。『押したら五億年』状態というのは急速なREM運動を伴う中枢神経障害ではないかと。広大無辺な時空で終わることのないローグライクゲームを強いられなおかつ事後の記憶が揮発している。これはヘキサンの重篤な副作用です」 「だが依存性はないんだだろ?」 「そうなんです。でなけりゃ娯楽として消費できません。演芸ホールに通い詰める依存症患者なんて聞いた事がないでしょう?」 「岡亦にとっては理想の客だよな。居眠りも退屈もしない。むしろ客席で鼾をかいている間に芸人が昼寝をする」 「しかしそれだけでは殺人事件の解明にはならない」 「企業が扱うヘキサンはSDSシートとして公開されます」 「SDS?」 「SDSは、化学物質の安全性情報を提供する文書です」 教授はスマホでアメリカのサイトを示した。 「例えば、アメリカではOSHA(労働安全衛生局)、欧州連合ではREACH規則がそれに該当します。日本では経産省の産業安全局の管轄です」 「矢作、出目金と例のホテルサウナの溶剤メーカに関して検索してみろ」 長谷部がドやすと光速で回答を得た。 「ええっとノナゴン石油化学でしょうか」 「それはどこにある? 教授。大量に扱うには貨物列車が不可欠だ」 「袖ケ浦に近い最寄りの貨物線は、京葉臨海鉄道の臨海本線にある北袖駅(きたそでえき)です。この駅は、千葉県袖ケ浦市北袖に位置しており、車扱貨物の取扱い駅となっています。北袖駅には、富士石油袖ケ浦製油所への専用線が敷設されており、線路上には石油荷役設備が設置されています。石油製品の発送先は、倉賀野駅、郡山駅、宇都宮貨物ターミナル駅、八王子駅などがあります」 「そこをガサるぞ! 矢作、令状を取ってこい」 地下二階でエレベーターに乗り込んだ三人は、地上へと戻った。そして、再び車を走らせる。 矢作が言った。 車は、教授の家に向かっている。 「袖ケ浦とは方角が違いますが?」 「長谷部警部に渡したいものがあるんです」 教授の自宅の地下にある部屋――研究室に、今回の事件の真相があるのだ。 車が止まった。 長谷部は、車を降りて辺りを見回した。見覚えのある景色が広がっている。ここは間違いなく千葉だ。しかし、何かが違う。 この違和感は何だろう。 そう思った瞬間、その答えに気付いた。 空が真っ赤に染まっているのだ。まるで夕焼けのように……。いや、これは夕焼けなんかじゃない! 彼は慌てて腕時計を見た。時刻は午後四時三十分を示している。今は夏だから夕方と言ってもまだ明るいはずだ。なのにどうしてこんなに暗い。 「長谷部さーん。こんなものが落ちてました」 矢作が車の前輪を見ろという。 タイヤが小さなプラスチックケースを踏んでいる。 五億年ボタン。 「やられた!」 長谷部は頭を抱えた。 「どうしたんです?」 矢作がひょうひょうと戻ってきた。 「おい! みんな逃げろ! 五億年ボタンだ」 長谷部は必死になって叫んだ。しかし誰も言葉を信じようとしない。それもそうだ。自身だって信じられないんだから……。 今この瞬間にも太陽は徐々に赤く染まっていく。このままだと世界の終わりまでそう時間はかからないだろう。 「えっ、五億年ボタン? まっさか。あれって集団催眠じゃないですか」 矢作が一笑に付す。 「いいか? よく聞けよ。これは夢とか幻覚とかそんなんじゃなくて現実なんだ。地球は終わりを迎えようとしている。今すぐにでもな!」 長谷部は、そう言い放ちながら手に持つ銃を強く握りしめた。そして目の前にいる矢作に向けてトリガーを引いた。 パンッ! 乾いた音と共に彼の持つ拳銃から弾が発射される。その銃弾は一直線に矢作へと向かい……そのまま貫通した。 「えっ!?」 何が起きたのか分からず、思わず声を上げてしまう。しかしそれも当然だろう。だって自分の撃った弾が自分の体をすり抜けて行ったのだ。驚くなって方が無理があるってもんだろ。 『どうやら貴方は死んでしまったようですね』 突然頭の中に女性の声が響いて来る。 (はぁ!? 「お前が押せば、そいつも押す?? 意味がわかんねえぞ!」 「そうです。私がボタンを押しても、その人は押してしまうのです」 「どういうことだ?」 「つまりですね……」 いきなり須賀が割り込んできた。 居るはずのない人間。 須賀の話によれば、こうだ。 例えばの話。 『D』というゲームにハマった人間が三人いたとする。そのうちの一人が須賀で、もう一人が『D』の作者であるK氏とする。 「」 「あなたたち二人は『D』の熱心なファンだったわね」 K氏は二人に言った。「じゃあ、なぜあなたたちはそのゲームの中で殺されるようなことをしたのかしら? 私はそれを訊いているの」 二人は答えられなかった。「それは、このゲームには殺さなければいけない人間がいるからです」 須賀はそう言ってK氏の顔を見た。「誰のことかしら?」 「それは、まずいだろう! あの人がこの世に存在する理由がなくなってしまうじゃないか」 「え? だって被害者もこの世界には必要のない人間じゃないですか」 「ふざけんなよ! じゃあ、お前がボタンを押せ! 俺が代わりに押してやる!」 「そうですか、では遠慮なく押しちゃいますね」 「待て! 早まるな!」 長谷部が駆け込んだ。 そして、とどめのひと言を言い放つ。 「どうしてたったのなんだ? 俺はでもでもいいんだぞ」 「えっ、いや、その」 須賀が慌てふためく。 有無を言わさず長谷部はねめつける。 「だれが決めたんだ? 粘ったら大金をくれるんだろ? おれはもっと欲しい」 「いや…ですから、五億年と」 「待つと言ってんだぞ。いや、二兆年待ってもいい。つか、あんたが作者か?」 長谷部がKをぎゅうぎゅう締め上げる。 「うわーっ!」 Kは昏倒した。 その時、世界が爆発した。 「――はっ?!」 後部シートで目覚めた。汗びっしょりだ。 「着きましたよ。袖ケ浦です」 教授が車のドアをあけた。131f2c1a-ede4-4801-8487-95450f1dbb66
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