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彼がまだ食べている中、レンジ掃除してくる、と先に席を立った。
庫内にへばりついた汚れや散り散りになった卵の殻を、甲子園球場の砂を詰める高校球児みたいな気持ちになりながら取り除く。虚しい。いっそレンジごと捨てて買い換えてやりたい。きっとこのレンジを視界に入れるたび、私は今日の失敗を思い出すのだろうから。昔からそうだから。ふとした瞬間に過去の恥ずかしい思い出や失敗を思い出して死にたくなっていたから。毎朝起きて冷蔵庫からシリアルにかける牛乳を取り出す瞬間、この温泉地みたいな卵のにおいが思い出されるのはなあ。ちょっと、いや、だいぶ死にたいな。
にしても迂闊だった。私も彼に言われるがまま、しばらくレンジの惨状を放置して朝食をとっていたけど、時間が経ったせいか、少しずつ汚れが取れにくくなってきた。大きなものは取り除くことができたとはいえ、焦る。いい加減彼だって食べ終わっ
「落ちないのか?」
ひんっ、と間抜けな驚き声が自分の喉の奥から出てきた。振り返ると、綺麗に全部平らげた皿を持った彼が、レンジの中を覗き込んでいる。あー、なんて抜けた声をあげながら。
なんなら今、自分の裸を見られるより恥ずかしいんですが。わかりますか? ここが私の失態現場なわけですよ。ただでさえ共感性羞恥が強めな私自身が犯したヘマの現場であってですね。両手足を同時に引っ張られるのと同じくらい痛いです。心が。
彼は庫内の惨状を笑うことなく、いつもと同じ声の調子で言った。
「時間経ったから、落ちにくくなってきたかな」
「たぶん」
「あー。……ちょっとキッチン用品、借りるわ」
シンクに食器を置くや否や、彼が「あれ貸して」「これ使ってもいいかな」と何やらテキパキ準備を始めた。彼は耐熱容器に洗剤をしみ込ませたキッチンペーパーを数枚折りたたんで入れると、今度はそれをレンジに入れて温めはじめる。
その動作がなんだか妙に板についているように見えた。あたかも、ずっと前から私たちがこの家で同棲していたかのようで、そう思うと妙にむず痒い感じがする。ただ、決して気分的に悪くはない。それを感じたきっかけが、私がしでかしたゆで卵の炸裂という事実を除いては。
やがて加熱が終わってから少し放置したのち、彼がキッチンペーパーを使い、私が散らかしたレンジの庫内をピカピカに磨き上げてしまった。蒸らして汚れを柔らかくしたら簡単に取れるんだよな……と彼がゴミ箱へキッチンペーパーを放り込む瞬間まで、私は唇を少し開きながら間抜けに突っ立っているだけだった。
運動会の朝の花火みたいな音で叩き起こされたというのに嫌な顔ひとつせず、私の不始末まで綺麗に片付けてしまうなんて、何者ですかあなたは。前世は何だったの? もしくは今は何? 実は死神とか? 時々ゆで卵を爆発させる女でよければ、私の魂なんてスーパーのサッカー台にあるビニール袋と同じように、好きに持っていっていいですよ。……あぁ、それはもう遅いか。もう持っていかれてるもの。
なんでもできちゃうんだな。やっぱり私の彼は、とてもすごい人だ。
だからこそ、私にはもったいない気がする。
そんなふうに余計なことを口走らないように、上書きした。
「すごいね。掃除に手慣れてる感じがする」
「いや、掃除に慣れてるっていうよりか、俺も何度かこれと同じことやらかしたから」
そうか、きみも同じ穴の狢か。
けれど、なんか安心した。完全無欠な相手とずっと一緒にいたら、いずれ自分の惨めさが際立ってきてしまう気がして、ほんの少し怖かった。あなたといると自信がなくなる、なんて胡散臭い理由で終わりたくなかった。
終わるには早いんだ。
だって、私は彼のことを本当に好きになっているのだという事実を、ようやく全て認められるようになった。
まだ始まったばかりだから。臆病者だった私もやっと、自分を覆っていた殻を嘴で突こうと思えるようになったから。
だからこそ、さあ、最初の一突きをば――。
「まあ確かに、掃除に慣れてたらもうちょっと部屋はきれいになってるよね」
私も昨日彼が来ることになってから慌てて部屋を片付けたクチだけど、最近はじめて訪れた彼の部屋は、お世辞にも整理整頓されているとは言い難かった。そう言うと思ったから来るなって言ったのに……と拗ねたように言う彼が、私の目にはどこか可愛く映った。
「でも、あれからちゃんとゴミ捨てたりしたよ。いつ家に来られてもいいように」
「よきかな。でも、もし私以外の女連れ込んだりしたら、破裂寸前のゆで卵を部屋の中に片っ端から放り込むからね」
「そんなことはあり得ないけど、放り込むならせめて口の中にしてくんないか。掃除が大変だから」
「口の中は、ちょっとやだ」
なんでさ、と訊ねてきた彼の唇に口づけた。
目をつむっている分、彼が一瞬びっくりして身体を震わせたことも、唇に残るカフェラテの味も、はっきりと伝わってくる心地がする。
数秒そうやって唇を合わせてから離したとき、彼の顔は蕩けているというより、ぽかんと気の抜けたような顔をしていた。
やがて我に返ったように「……んで、なんで口の中はダメなんだ?」と訊いてきた彼に、私はしれっと答えを投げ返した。
「あなたにキスしたとき、卵の味がするのは嫌だもの」
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