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彼はまだぐっすりと眠っていて、数十分前に私がそっとベッドから抜け出しても、まったく目を覚ます様子がなかった。一人で寝ているときよりも布団の温もりが恋しかったが、そんな悠長なことを言っていられない。嫌われたくないとか幻滅されたくないという気持ちは確かにあるけど、今はそれよりも純粋に、彼のためにできることは何でもしてあげたいと思う気持ちに突き動かされている。
恋人なんて肩書がついても結局自分は他人に心を許せないだろう……という概念が呆気なく破壊されて久しく、もはや彼に見せていないのなんて、コツコツと毎月入金している貯金通帳の残高程度である。私の意志のほうが、そこに記された金額よりも、はるかに安かったな。
時計の針は朝6時半を少しまわっていた。仕事があろうがなかろうが起床時間を変えない私にとって、この時間に起きていることはさして苦痛を感じなかった。それよりも少しだけ居心地の悪さを感じるのは、ふだん朝食を自分で作ることがないからだろう。自分だけで食べるのならシリアルでよかったし、キッチンに立つのなんて、せいぜい欲張ってトーストを焼くときくらいだった。にもかかわらず、今は二人分の食器を並べて、せっせとサラダをこさえ、今はベーコンを親の仇みたくカリッカリに焼いているところだ。
いつもこんな手の込んだことはしないのに、本当に恋愛感情というものは恐ろしい。痴情のもつれで人を殺めるのに比べたら、ふだん作らない朝食をおもむろに作ったりしはじめるのは可愛いものだと思うが、もし一歩間違えていたら、私も今頃恋敵をこのベーコンのように焼いていたんだろうか。
ただしベーコンと違うのは、彼を私の手から奪い去ろうとする相手がいるのなら、カリカリどころか黒焦げにしてやらなければ気が済まない。可能ならば灼け付く感情を以て、その骨も残さぬほどに焼き尽くしたい。それくらい、私にとって彼は「自分みたいな女にはもったいない人」だと思っている。私はちょろいから優しくされたら嬉しくなってしまうけど、それに甘えてわがまましか言わなくなるくらいなら、いっそ一人ぼっちへ戻りたい。
でも、私はもう今となっては一人ぼっちになんて戻れないことは分かっている。頭のてっぺんから足の先まで、彼のことを好きになっているから。ただ、いくら恋愛感情に溺れたとしても、わがままを言って彼を困らせるだけの存在になりたくはない。そうならず、自我を保ち続けるために、私ができることは何なのか。そうして導いた結果が、このシチュエーションである。
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