膨張

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 *** 「すると、フォークで穴をあけていればゆで卵をもう一度レンジで温めても大丈夫だ、というネット記事を読んで」 「はい」 「温めてみたら結局は爆発したと」 「そうです。すみません」  掃除よりも先にメシ食おうよ、と彼は私を立ち上がらせながら笑った。結果的に、当初のメニューと比べるとゆで卵だけが不在の朝ごはんが始まったわけだが、最後の最後で大失敗をした私の頭の中は今も真っ白けになったままだ。いっそマイクロ波でこの恥ずかしさ極まる思い出を全て無かったことにしたい。せめて彼の記憶からは消し去りたかった。どうしたら人間の記憶って消せるんだろうか。掃除が終わって庫内がきれいになったら、頭だけレンジの中に突っ込んでもらおうかな。一応「弱」とかにするし。どう私、気遣いができるでしょ。本当にできるなら料理だってまともにできるはずなんだけどさ。  当の彼はちっとも怒ったり落胆したりする様子を見せず「へぇ。じゃあ、あけた穴の数が少なかったのかな」と朗らかな調子で推理しながら、今も付け合わせのサラダをむしゃむしゃと口に放り込んでいる。もちろんそうやって何事もなかったように振る舞っている彼に悪気が一切ないのは分かるけれど、反対に私の気持ちはどんどんと惨めになるばかりだった。慣れないことはするものじゃない。手間を省こうとした結果、手間を増やしてどうする。近道しようと適当な路地に入った途端、小汚いガードレールに車のバンパーを擦った自分の父親を思い出す。私はやっぱりお父さんの子供だったみたいだ。  前日にゆで卵を作っておけば当日温め直すだけでいいし時短だよね……などと考えた昨日の私を電子レンジに放り込みたい。いや、それじゃ生ぬるい。お前なんかもういっそオーブンだ。300℃くらいに温めておいてやる。15分くらい入ってりゃそのアマアマな発想もカリカリになるだろう。ばかものが。  空気以外ほとんど何も掴むことのなかった箸を置き、私はゆっくりと首を垂れた。   「本当にごめんなさい。いっそ、あなたがその手に持ってるフォークで私の脳みそにも穴をあけてくれませんか」 「ずいぶんと自虐にクセがあるな」 「当たり前でしょ。目覚めの合図はもっと別のものにしようと思ってたのに、レンジでゆで卵爆破した音で叩き起こすなんて、ほんっとに私ってバカすぎる」 「そんな気にすることないって。少なくとも、どんな目覚ましよりも効果あったよ」  ははは、とコーヒーを啜る彼。目覚ましとしては優秀だったって、いやまあ確かにそうだろうさ。何デシベルくらいあったのかな、あの爆発音。かなり大きかったから、上下左右の部屋から管理会社あてに苦情が来ないことを祈るばかりだ。  彼だって、今は愉快そうに笑っているけれど、内心はどう思っているか知れない。ゆで卵ひとつまともに作れない女なんて……と脳内で別れに向けたロードマップを作っていてもおかしくない。エビデンスとかコンプライアンスとかコントレックスとか、とにかくやたらと横文字を多用したやつを。  私という人間をある程度理解してきたであろう彼は、きっと霧が晴れるように、静かにすっといなくなろうとしているのではないか。少しずつデートの頻度が減り、笑顔が減り、連絡の回数が減り、やがては音信不通。メールや電話のように「宛先がありません」「お繋ぎできません」すらなく、いつまで経っても「既読」の二文字が刻まれない、静まり返ったトークルーム。私のふるえる独白しか響かない、一人ぼっちの部屋。  そんなの嫌だ。
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