父の昔話②

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父の昔話②

 私が小学六年の時である。夕食時、突然何の前触れもなく父がこう言った。  「お父さんはの、勉強するのが好きやなかったけ、体で働くことにしたんじゃ。お前が勉強したいんやったら、学校は大学でも何でも行かせてやる。人間はの、学校行って勉強するか外出て働くしかない。勉強も働くのもどっちもやらんのやったら、そん時は家から出て行けよ。(⁠ ಠ⁠_⁠ಠ⁠)⁠」…と。  …急にそんな事を言われて私は面食らった。特に最後の「出て行けよ」の言葉に驚いた。  一言で纏めれば「ニートは許さん」ということなのだが、当時はニートは勿論、「引きこもり」という言葉も耳にしなければ、「オタ」なんて言葉も無い時代だ。言われた瞬間、私は父の言ってる事がイメージ出来なかった。  おそらく父としては、「来年から中学生なんだから進路を考えろ」と言いたかったのだろう。工業高校や商業高校に行って就職するのか、大学進学を目指して勉強するのか、中学生になれば進路を考えなければならない。それを父なりの言葉で言ったというところか。  ただ当時の私にはそこまで考えつかなかった。贅沢を言うなら、もう少し言葉を足して欲しいところではある。 (ちなみに私が全く解らなかった場合、母が横から言葉を足すのが子供時代の定番だった。)  とはいえ、私も子供ながら「学校に行って勉強する」、「会社に行って働く」、という以外の発想しか持っていなかった為、飯を食べながら「確かにそうだ」と思い、「うん、わかった。(⁠・⁠–⁠・⁠)⁠ ⁠」と、素直に答えた。  父は工業高校を卒業後、身一つで働く事を選んだ。週6日は当たり前、残業も徹夜も当たり前、1ヶ月休み無しとか3日間徹夜だとか、肉体労働に属する仕事でそれをやる化け物だ。  家を建てた時、父は「お父さんはの、自分の体で人の3倍働いて3倍稼いで、この家を建てたんじゃ。⁠(⁠ò⁠_⁠ó⁠ˇ⁠)⁠」と言ったが、それは決して大口ではなかった。職人として、己の腕で働き稼ぐ事に自信と誇りを持つ、「昭和の男」であった。
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