縁(えにし)

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 一ヶ月後。  明人と和美は、渓流と緑が美しい小さな温泉街を訪れた。  相も変わらず明人は暗い顔のままだが、和美の表情には覇気が戻りつつある。  きっかけは当たり前で、それでいて些細なこと。下腹部に手を当てると、小さな脈動を感じた気がして胸が暖かくなった。  泊まる宿は渓流を一望できる人気の宿であり、ホームページに掲載された写真を見て、ほぼ衝動的に宿泊と療養を決めた。  まるでエメラルドを砕いたような煌めく緑の中。生命力があふれる自然の中で、自分が妊娠したことを告げたら、明人は暗い妄想の世界から戻ってくると。 ――そう信じて。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆  宿の場所が場所だけに、車を途中で降りてきわどい山道を歩く。  ()を進めるごとに、明人の表情から(けん)がとれて、瞳に光がさしていくのが嬉しかった。これで現実の美しさを思い出し、妻である自分の存在に気づいて欲しい。  自分たちはこれから過去と決別して、新しい家族と未来へ歩いていくのだ。  きっと素晴らしい未来になるはずだ。 「……ぃ、っ」  しかし、致命的な落とし穴があった。順路は単純で迷うことはないが、勾配(こうばい)がきつく、木の根に何度も足を取られて和美は思わずしゃがみこんだ。宿に到着する達成感も人気の一つなのだろうが、あまりの悪路(あくろ)のせいで体が悲鳴をあげて、生理の時に似た鈍い痛みが下腹部を走る。ここに至って後悔した。本来なら妊娠初期に訪れるべき場所ではなかったのだ。 「ごめん、引き返して帰りましょう」 「え……、ここまで来たのに」  突然の和美の変心(へんしん)に難色を示しつつも、明人は即座に(きびす)を返す。そこそこの道幅があるが、すぐ脇に渓流が見えた。叩きつけるような水音が、まるで自分を追い立てているようで和美は泣きたくなってくる。 「お願い、お腹に赤ちゃんがいるの」 「え?」  この時の明人の顔を和美は忘れられない。  苦痛を訴える妻よりも、美しい自然よりも、自らの内側へと深く潜り込んでいく淀んだ瞳。  ヘドロを煮詰めて腐臭を放ちそうな黒い目が、ゆっくりと動いて止まる。  キモチワルイ。  そんなキモチワルイ瞳から感極まった涙を流し、熱い視線を和美の下腹部に注ぐ(明人)は、おぞましい言葉を発した。 「そうか、そうだったんだ。っ!!!」 「!」  死んで存在感を増したリホ。  黒い影を家に招いた夢。  罪悪感で壊れた夫は、和美を前にしてなにを見ている。  わたしは果たしてなにを身籠った?  ずっと目を背けてきたこと。  それを受け入れる。  背中を押す。  それは、  もしか  し  て  。  江西のアドバイスが脳内を駆け巡り、全身から大量の汗が噴き出る。 「それじゃあ、残念だけど帰ろうか。おぶるから安心して」  宿泊できない名残惜しさから、  煌めく緑と渓流を見ながら、  無防備に背を向けようとしたタイミングで。 ――ドンッ。 「え?」  大きくよろめいた体。  明人は悲鳴をあげる前に、山道を滑落して渓流に呑み込まれていく。  和美は手を突き出したままの姿勢で固まり、茫然とした表情で自分の手を見た。  自分が何をしたのかわからない、わかりたくない。  けれど彼女の手のひらには、確かに明人の体温が残っている。  突き飛ばした感触も。湧きあがった殺意も。自分たち以外誰もいないと判断した冷静さも。  つまり【受け入れる】という、本当の意味は……。 「あ、はっ、ぁ、あ、キャ、ハッ、ハハハハ……ッ」  和美は痛みをこらえながら乾いた声で笑った。  明人を殺した罪悪感なんてなかった。  救いを求めるリホを拒んだ時点で、自分がどういう人間なのか分かっていたはずだった。  トチ狂ったように笑いながら、身を引きちぎる痛みを受け止めて解放感に酔いしれる。  夢にでてきた黒い影の正体が、リホの亡霊なのか、認めたくない和美自身の悪意だったのか、もはやどうでもいい。  死んで二人は再会を果たした。  もう誰にも引き裂かれることはないだろう。 「どうぞ、お幸せに」  吐き捨てるように言うと、自分でもぞっとするような冷たい声が出た。  和美はポケットから携帯を取り出して、警察と救急車を呼ぶ。  そして突発的に自殺した夫にショックを受けて、流産しかけている哀れな妊婦の筋書きを立てる。  これが江西の言う可能性の道だというのなら、なにがなんでも自分は幸せになってやる。  わざと下腹部に力を入れて己を奮い立たせると、太ももから粘ついた赤い血が、切れた糸のように伝うのを感じた。 【了】e97899ad-0032-466f-be93-7f34da135c4c
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