縁(えにし)

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◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆  忌々し気に和美は、リホと最期に会った時を思い出す。  たしか時刻は18時ぐらいだった。毒々しい赤い夕陽が眩しくして、町中の人々の影がいつもよりも色濃く存在感を放っていた。  玄関のチャイムが鳴った時、普段だったら電話の子機で要件の確認をしていたのに、普段の慎重さを発揮できなかったのは、想いを寄せていた明人から告白されて結婚できたからだろう。  彼の家に招かれて、生活を共にして、夫よりも早く帰宅して料理を作り、満面の笑顔で出迎える。  和美には家庭的な女性へのあこがれと、専業主婦だった前妻との対抗心もあって、仕事でも家庭でも夫を支える【完璧な妻】になろうと決意を固めていたのだ。  扉を開けるまで彼女は幸せの絶頂だった。 ――ガチャリ。  音をたてて開かれた外の世界。  毒々しい赤い光で満たされている中で、真っ黒の人影が正面から自分を出迎えている。 「…………」  それはまるで、夕日に照らされて足元から伸びた影が、自らの意志を持って、目の前に立ちはだかったような驚愕と混乱があった。  和美は1ミリも動くことができず、対峙する黒い影もまた動かなかった。 「どちらさまでしょうか?」  かろうじて声が出たのは、ほぼ反射的であり、日常的に積み重ねた経験ゆえに肉体が声帯を動かしたのだ。  現実的な肉体の反応が、硬直した思考をほぐして眼前の解像度をあげていく。  よかった、人間だ。  強烈な逆光で、その場に立っていた人間が、影で黒く塗りつぶされてしまい、立体的な人影に見えてしまったのだ。  内心で胸を撫でおろした和美は、突然の来客の正体に気づいて別の意味で衝撃を受ける。 「もしかして、リホさん?」  旧姓は間崎リホ(かんざきりほ)。再婚しているから、また苗字が新しくなっているのだろうけど、そんなことには興味がない。    やせ細った体に、毛玉とシワだらけの服。長い黒髪を短く切り、化粧っ気と生気のない顔が、自分たちの暮らしていた家から当然のように出てきた和美を見て悲し気に歪む。 「和美ちゃん、明人くんと付き合ってるの?」  呆然と呟くリホに、和美は無言で首を縦に振った。  交際ではなく、付き合っているという言い回しに、彼女の幼さが垣間見えた。  どうして、いつも。  リホを見ていると、いつも和美は、自分が不当な目に遭っているような気持ちにさせられる。  一種(いっしゅ)の人たらし。保護欲を刺激するようなか弱さがあり、時にその魅力は彼女を助けだが、場合によっては無責任に彼女自身を口撃(こうげき)する材料にもなりえた。  古風な愛らしさがあったリホ(前妻)の変わり果てた姿。羽根を全部むしり取られた鶴みたいにかわいそうで、涙で潤み始めた瞳には小動物のような無垢さがある。  弱さを視覚的な暴力に変えた――全方位に脆弱さを強調した存在。  ただ見ているだけなのに、痛みを伴う罪悪感を針千本(はりせんぼん)と植え付ける。  助けてあげなければ。  罪悪感の傷跡から、じわりと泥のように溶けだしてくる同情の気持ち。  だが、ここで負けるわけにはいかなかった。 「わたし達、今度、結婚するの。だから、よりを取り戻そうなんて思わないでねっ!!!」  まるで殴りつけるように大声をあげて、乱暴に扉を閉める。  心臓がバクバクと音を立て、糸が切れたように全身から力が抜ける。ドアに背をあずけてそのまま座り込んだ時、頭に浮かんだのは【自分は正しいことをした】という怒りに似た感情。  明人は優しいから、変わり果ててしまった元妻(リホ)の姿に、同情するのが分かりきっていた。  だからこそ、救いを求める手を振り払ったのだ。  もう自分の居場所はないという現実を叩きつけて、リホは和美たちの前に現れることはないだろう。  わたしは勝った。  そう思っていたのに。
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