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野球というものは不思議なもので、野球をする人に属性を付与してしまう。例えば高校球児とか、野球少年。他のスポーツにここまではっきりした単語はおそらくない。高校球児は真面目で元気。
他のスポーツとどこか違う、かっこよくて綺麗で不気味な野球。
西恭一は元野球少年であり、元高校球児である。だが恭一は野球を嫌悪していた。正確には『教育として行われる野球』を。プロ野球や大学、社会人野球にはそれほど嫌悪はない。
エースを愛していたが彼から受けた仕打ちは恭一を変えた。気高く強いエースを本当に慕っていたのに。
それから時が流れた。
就職した会社が二年後に潰れた。二十五歳で路頭に迷うとは予想外すぎて悲しみより驚きが大きい。
ふらりと歩きホームレスの列がある河原に辿り着いた。ここに住んでしまおうかと頭によぎる。
どうして河原のここだけにホームレスが密集しているのかと疑問を持った。この街は河が横断しており河原はどこにでもある。
そして恭一はすぐに気づく。
この河原からグラウンドが見える。優秀な子が集まるという『ラークス』。何人も後のプロを輩出している。
他の河原と違いシニアの練習や試合を観られるからホームレスが集まっているのだ。
やれやれ、この国の野球人気は凄いなと恭一は驚き呆れた。
でも、その気持ちを分かってしまう。
あれ程野球が嫌だと思っていたのに白球とそれを追う者達の魅力に勝てずに、今日も恭一はそれを見ていた。
ハローワークに通いつつ、夕方に野球を見るのを日課にした。
ある春の日。
入団する新入生の実力テストを兼ねた紅白戦が始まる。名門シニアにやって来た子達だけありクソ生意気な堂々たる面構え。
その中、きょろきょろするばかりの純朴な顔があった。
恭一の目は真っ先にその子を追う。他の子と違い自信がありそうではない。だからといって自信なくびくびくするでもない。
場違いな所に戸惑う子供。異世界に迷い込んだ、まさにそのような。
彼は応援に来ている家族を見ているのだろう。時折グラウンドの外に目をやる。他の少年達は実力の誇示だけを考える。数人の少年が迷ってやって来た彼を馬鹿にした目で見る。ここはお前みたいな弱いのが来る場所ではない、俺達と一緒だと思うな、と。
萎縮するか? と恭一は彼を見つめた。心配したに近い感情だ。
だが彼は不本意だという視線を返しただけでびびりもしない。不思議な子だとますます恭一は興味を持った。
紅白に別れ、その子は白に入った。そしてファーストに。おいおい、勘弁してくれと恭一は額を押さえた。
ファーストだなんて、俺と同じではないか。ただでさえ意味のない肩入れを始めているのにますます気になるではないか。
彼のファーストとしての技術はごく普通だった。捕球が問題ないというだけ。特別な技術はない。
彼は他の子に馬鹿にされようと気にしないらしいが、時折首を傾げている。
もしかして彼の意思ではなく誰かに入団させられたのだろうか。おそらくそうだろう。
彼はまた、グラウンドの端を見た。彼が見ている人は恭一からは見えない。彼は誰かに首を傾げ、そして不本意そうに頷いた。
彼は打撃も普通だった。はあ、と彼がため息をついたのを恭一は見逃さない。
最終回、彼がマウンドに立った。
これには恭一も驚いた。
彼自身も驚いている。
どうやら誰かが監督に直談判して彼をマウンドにあげさせたらしい。打者もみんなもにやにやと嫌な目つきで彼を笑う。
恭一は笑っている奴らに腹を立てる。渦中の彼は恭一と違い、腹を立てるというより、もう帰りたいと思っているようにけろっとしている。
あの子、打たれないといいな。恭一は純粋な気持ちを抱いた。
彼が観念したようにモーションに入る。
お、オーバースローか、と恭一は見入った。
バン! とキャッチャーミットが快音を響かせた。
その音が恭一の耳に届き、野球をしていた頃の記憶を一枚絵のようによみがえらせた。
恭一は一塁からいつもエースに見惚れていた。アウトを取る度、エースが幼さすらある笑顔を見せるので、恭一は補殺の機会が多いファーストが大好きだった。
なんであんな小さな子が、あいつの記憶を見せたのかと恭一は不安にも近い興味を抱く。
再びキャッチャーミットの音がグラウンドを支配した。
まさかこれほどとは思わなかった。恭一はぞくっと痺れた。こんな痺れ、野球から離れてから一度もなかった。
グラウンドは少年の物に。
それを彼だけが理解していない。
誰もが彼に羨望の目を向けた。表情を変えた監督とメモを取り始めたコーチ。
三球で三振を取った彼は、肩の荷が下りたように胸に手を当てて息をついている。
お前、気づいてないのか? 恭一は遠く離れた名も知らぬ子に心で問う。
みんな打てない。球速だけでなく、質も良い。だからあそこまでの魅力が出る。
ホームレス達も彼を楽しそうに見ていると気づき、恭一は嫉妬した。
あの子を河原から見るのは経験者の俺だけでいいのにと。
九球で三者三振を決め、ほっとしたように背伸びをする子が愛らしい。あれ程の力を見せておいて疲れたとだけ感じている。
君、気づいてないのか?
恭一はまたしても問う。
チームメイトの一人が彼に走り寄る。あーあ、声を気軽にかけられていいよなと思う。
チームメイトに何かを言われ、彼は辺りをようやく見回した。
彼は頬を真っ赤に染めた。
どこまでも純粋な子なのだと恭一は好ましく思った。
そして彼の瞳に力が入った。
恭一は残念に思った。彼から純粋さが減ってしまったではないか。これは野球のせいだ。
まあ、少しくらい純粋さを失うのは仕方ないかと恭一は固まっていた体をほぐしながら諦めた。
あれ程の力で純粋でいられるわけがないのだ。
熱く紅潮した頬に自信を宿し始めた瞳、不敵に口角の上がる唇。
恭一は心惹かれていた。
怪物が殻を破るのを見た。
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