0603 やり残したこと

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0603 やり残したこと

「昔昔、といっても、そんなに昔なことではありません」 痛みのせいで手も口も利かない、藍を止める力はない…… 「とある子爵の家に、四人の令息がいました。その中に、末っ子は抜群に優秀でした。末っ子の身でありながら、家族の後継者として期待されていました。当然、そのようなことは兄たちの不快と嫉妬を買いました」 こんな緊張感の溢れる環境にもかまわず、藍は悠々と物語を語っている。 「ある日、子爵の末っ子はいつものように狩猟に行ったら、乗っていた馬が突然に暴れ出して、彼を崖の下に飛ばしました。一命を拾った彼は病院で一週間も治療を受け続けて、やっと意識が回復しましたが、目が見えなくなって、声も失いました。家族の希望だった彼は人生のドン底に落ちました」 アルビンの顔に怒りの色が浮かんだけど、何も言わず、話の続きを聞くことにした。 「家族はあらゆる名医に助け求めていたが、治療の成果がなかなか見えなかった。彼のはますます乱暴になって、自己放棄しました。彼を可愛がっていた親も失望して、彼を諦めました。その時に、彼を救ったのは一人の少女でした。世話役として雇われた少女は彼を励んで、彼の心を開けました」 「励み」というより、「教訓」のほうが相応しい。 彼のことを馬鹿にして嘲笑ったり、食事に苦い薬を混ぜたり、暴れ出した彼の顔を平手で打ったこともあった。 思い知らせてやりたかった。 その時の彼は生まれたばかりの小鹿のような生き物。自分を支える力を持たないと、何度でも倒れる。 彼のいる世界は、いつも誰かが傍で支えてくれるような甘い世界ではない。 彼は単純だから、やすやすと私の挑発に乗った。 いつか治ったら、私を絞め殺すとまで誓った。 なのに…… 「そしてある日、奇跡のように、彼は声を取り戻しました。目も光が見えるようになりました。医者さんの話によると、もうすぐ元通りに戻るのでしょう。家族は彼への期待が再び燃え上がりました。しかし、その時、彼は家族を困らせる発言をしました」 姫様は治療を続けているが、注意力が完全にその物語に取られた。 勝手に私の過去を明かして、藍は一体何をしたい……? そもそも、どうして私とアルビンの過去のことを聞いたの?  魔女の呪いも見える彼は、一体なにもの…… 「『彼女を妻として迎える。花嫁は彼女ではないなら、一生も結婚しない』。声を取り戻した彼は、両親にこう話しました」 そう、それを思い出すだけでも頭が来る。 わがままなお坊ちゃま、勝手にもほどうがある。 相手にどれだけの面倒をかけるのも考えずにあんな馬鹿な話を…… 「ロマンチックな話ですね。貴公子は自分を助けた平凡の少女とお恋に落ちました――」 落ちていない。 私の目での抗議に気付いたのか、藍は言葉を直した。 「いいえ、正しく言えば、貴公子の片思いだけでした。少女は彼に特別な感情を持っていません。それでも、子爵夫婦は不安でした。家族のために、既に息子に理想な結婚相手を選びましたから。すると、子爵夫婦は少女に話を持ちました。どんな内容なのか、想像できるでしょう」 「……話? どういうこと……」 ここまで聞いいて、アルビンはやっと声を発して、叔母の姿を探すように見まわした。 「……叔母様……? 叔母様はどこ……?」 「意外なのはその後の話です」 藍はさりげなく続けた。 「ある日、目がまだ完全に回復していない貴公子は少女と森で散歩する時に、盗賊に遭遇しました。怯えた少女は盗賊に命乞いをして、傷を負って気絶した貴公子を置き去りして、そのまま行方不明に。幸い、貴公子は通りかかった猟師達に救われました」 「その事件の後、貴公子はもう少女の話をしません。裏切られて、傷ついたのでしょうか。あるいは、少女への愛情は、もう憎しみに変わったのかもしれません……」 その物語の主人公は誰なのか、言うまでもない。 「その少女、と貴公子は……」 姫様は哀れな目で私を見つめた。 あれは、仕事の途中のトラブルだけだった。 なぜ悲劇のヒロインに思われなければならないの? ……おかしい、藍の話が終わった途端に、頭痛が不思議に消えた。 偶然なのか……いいえ、偶然にして偶然過ぎる…… 「ブリストン様、そんな、そんなことはないです! きっと何かが間違っています!」 姫様はアルビンに向かって声を上げた。 「一番つらい時でもあなたのことを諦めなかったあの少女は、あなたを捨てて逃げるはずがありません! きっと、何か理由が……」 「俺も、信じられなかった……何かがあったかもしれないと、思っていた……」 アルビンは片手で半分の顔を遮る。 体が強張っていて、何かに怯えている様子…… 「それに、あの、指輪……」 彼の声が震えていて、言葉は断片になっている。 「掴まれた四人の盗賊の頸、細い刃で血管が切られた……奴らは、命を守るために止血に逃げたから……俺のことを見逃した……」 彼は怖がっているだけだ。 真実を知ることが怖かった。 だから、私への逆恨みのような感情で自分を守ろうとしていた。 「叔母様、本当にそうだったのですか……」 アルビンは振り向いて、無力な問を後ろで彼を見守っている叔母に投げた。 「……マーズ様、いいえ、フィルナ・モンド様ですね……申し訳ございません……」 貴婦人は彼に返事をしなく、私に謝った。 「謝ることはありません。あの盗賊の事件がなくても、仕事は終わるところでした。もうアルビンに会わないと子爵様と奥様に約束しました。彼は私の声を覚えているのが思わなかったのです」 「忘れるもんか……」 あっさり忘れてくれたら、こんな面倒なことにならないのに。 それに、今は過去のことに浸す場合じゃない。 「よし、できた! 皆様、早く! 二列に並んでください!」 脱出の準備が出来たようだ。 船員たちは乗客を救命ボートに案内し始めた。 「お先にどうぞ」 案内の船員が近くに来たら、アルビンの叔母を船員に任せて、救命ボートを待つ行列に向かわせた。 「行きましょう、お嬢様」 藍も姫様を促して、ふたりも並びに行った。 アルビンは叔母の後について行かなかった。 黙って私の腕を掴んで、私に背を向けたままた行列へ歩き出した。 今回、彼の腕に力が入らなかった。 荒波の中で救命ボートを出すのは大変危険な行動だけど、船員たちが必死に頑張っている。 それに、船員と乗客の数は大体半分半分、一対一で誘導するのもかろうじてできる。 無事脱出の希望が見える。 あと一歩か。 藍は姫様の両手を支えて、彼女を救命ボートに乗せた。 次にアルビンは船に入って、私を迎えようと両手を伸ばした。 こっそり横を覗いた。 藍はまだ乗っていない。 こんな混乱の中で、彼の冷静から特別な何かを感じた。いいえ、彼本人から不思議なものを感じた――最初から、今までずっと。 彼はボートに乗るの? 先ほど、姫様が人質にされた時、どうして止まっていたの。再び現れるまでの間に、彼は何をしていたの? 主人を守るよりも大事なことでもあるの? その変わらない優しい微笑みと黒い瞳の中に、一体何が隠されているの? 現に、彼の意識はまるで救命ボートに向けていないようだ。今でも立ち去ろうとする雰囲気。 私の直感が強く語っている――まだ海賊船を離れてはいけない。やり残したことはまだある。 「それでは、うちのお嬢様は頼みました」 いきなり、藍は搭乗を指揮している副船長にそう告げた。 「藍?!」 「申し訳ございません、お嬢様。まだ後片付けが残っているので、失礼いたします。契約通り、上陸までの安全は保証しますから、ご心配しないでください」 「藍、何を言っているの……? 後片付けって……」 ほかの人が反応できないうちに、藍は後ろに一歩を跳んで、救命ボートから離れた。 「お客様……」 「藍——!!」 姫様は手を伸ばして、藍を追いかけようとしたが、副船長に止められた。 「危ないです! 船から出ないでください!」 直感は当たったみたい。 「私も行かない」 私も一歩下がって、アルビンの手から離れた。 「何だと?!」 アルビだけではなく、ほかの人も驚いた。 無理もない。千載一遇の脱出チャンスなのに、諦めるのは不可解すぎる。 「やり残したことがある」 「なんのこと?!」 「分からない。でも、それは私のやるべきことだと分かっている。皆さんはお気になさらず、このまま脱出してください」 短く言い告げたら、早速身を翻して、藍の後を追った。 海面の向こうから、今までの轟音を凌ぐ砲火の音が伝わってきた。
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