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依は契約書のサインを書き、印鑑を押すとカタンと音を立ててボールペンを置いた。前回のアパート契約をする時には亜純が隣にいたのに、今回は1人。
亜純と住んでいたアパートを解約する時ももちろん1人だった。
天野依と書かれた自分の名前を見る。天野の苗字を見つめながら、他人から亜純まで「天野さん」と呼ばれ始めたことを思い出す。
あの時は心底嬉しかった。亜純の苗字が変わって自分と同じになって、ようやく自分だけのものになった気がした。
結婚するまで不安だった。すぐにでも結婚したかった。専門学校と大学で生じる2年間が途方もなく長く感じた。
新卒でお金がなくても、亜純の方が稼いでいても、プライドなんか捨てて亜純と一緒にいられたらそれで幸せだった。
ずっと一緒にいられると思っていたのに。思い出は全て手放してしまった。千景に委ねた亜純の私物。ちゃんと渡してくれたのだろうかとずっと考えている。
しかし、渡したという連絡が千景からはこないし、亜純からだってもちろんこない。
何度も亜純の連絡先を表示させてはホーム画面に戻った。少しだけでも声が聞きたくなって電話をかけようとしてやめた。
こんなことなら子供を作っておけばよかった。またそんなことを考える。けれど、子供に2人の時間を邪魔されたらきっと発狂してしまう。
それならもう触れられない、手の届かない場所に追いやった方が少しは気持ちが楽になる気がした。
新居で新たな生活を始める。亜純の思い出のない家で、新しい自分を見つける。そう踏み出そうと思っていた。
しかし、社会人となった自分にはいつも亜純が近くにいた。高校生の頃からずっとだ。亜純に出会う前の自分がどうやって生活していたからあまり思い出せなかった。
色んな女性が常に周りにいた。同じように過ごそうにも同年代の女性はほとんど結婚して子供がいる。
もっと若い女性は、富豪でもない離婚歴のある男を遊び相手に選ぶとは思えない。プロの女性に金を払って遊ぶ気にもなれない。
別に女じゃなくても……そう考えてみたってわざわざ独身の友人を誘って飲みに行く気にもならなかった。結局亜純や離婚の話で持ち切りになるのは目に見えているからだ。
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