おかん

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おかん

 きっと車の中で、二人が俺の家に上がるかどうかで喧嘩したんだな。すぐに俺には分かった。多分おかんは家に上がりたくなかったのだろう。現実と向き合うのが辛いから。  おかんと姉は何も会話することなく、おかんは椅子に座った。ダイニングテーブルもないのに、一個だけ置いてあるダイニングチェアに。  俺を高齢出産で産んだ。そして足が悪かった。俺が生まれた時から足はびっこを引いて歩いていた。自然分娩が出来ないから、帝王切開で産んだとのこと。おかんもまた、俺が小さい頃にお腹の傷を見せながら、 「あんたはここを切って出したんだぞ。感謝しなさい」  と何度も言ってきたことを覚えている。二人は俺が生まれたことを互いに自分のおかげで生まれたことにしたかったのかとずっと思っていた。  地べたには足腰が悪いおかんは座れないから、一台だけしっかりした高さのダイニングチェアを置いていた。そこに先回りをし 「ニャーン」 と鳴いた。「ごめん」と伝えたかった。 「この椅子も私のためにずっと置いてくれてたんだよね」  と呟いた。そして泣き出した。昔から涙もろく、すぐに泣いていた。  おかんはなんでも自分のせいにしたがる人間だった。だけど、全て悪いのは俺で、ただの一度もおかんが悪かったことはなかった。甘やかして育てられたと思う。ただ、おかんはそれすらも悔いていた。  足が悪かったことも何度も俺に謝った。足が悪いのは先天性のもので、おかんは何一つ悪くはなかった。それでもおかんはずっと謝り続けた。 「一緒に走ってあげれなくてごめん」と。  だけど俺はまったく気にしたことがなかった。むしろ、足が悪いのに必死に走ろうとする姿を見て俺が申し訳なくなった。  足が悪かったため、出来る仕事も限られていた。離婚して、実家に帰った時はスーパーのレジ打ちをしてたが、長くはもたなかった。足が悪く長い間立っていられないからだ。そんなときも、俺に謝っていた。 「お金稼げなくてごめんね。好きなおもちゃでも買ってあげれば良いのにね」と。  レジ打ちの仕事を辞めてからは、知り合いのクリーニング店で働いていた。小さなクリーニング店で、基本は受付をしていたが、お客さんが来た時しか立たなくていいから大分楽だったのだと思う。そこでは結構長い間働いていた。  おかんは仕事で家に基本いないことが多かった。それも仕方ないと子供ながら思っていた。むしろ俺を育てるのに必死で働いてくれていることを幼いながらも理解していた。  俺は市営住宅に住んでいたが、小学校低学年の時は、隣の部屋に住んでいたおばあちゃんが優しくて、そこにおかんが帰ってくるまでいたから、寂しいと思うこともなかった。  お金がない中でも、習い事をたくさんさせてもらえた。水泳、スキー、バスケットボール。その中でも、俺はバスケにはまり、お金がない中も不自由なく高校までバスケをさせてくれた。どんなに遠い会場で試合があった時も見に来た。バスケのルールも、戦術も分からないのに物凄く口を出してきたぐらいだ。当時の俺からしたら、監督より厄介な人間だった。 「大学に行かせてあげれなくてごめん」  俺が高校卒業して社会人になってからの、おかんの口癖だった。実際俺はなりたいものも小さい頃からなかったから、大学に行きたいとも思っていなかった。  そもそも勉強を俺はしていなかった。勉強をしていない俺を一度も責めたことはなかった。決して良いとは言えない成績表を見せても、何も言わなかった。俺が何歳になってもおかんは大学のことを気にしてた。多分ずっと後悔しているのだと思う。 「気にしなくていい」  何度俺が言っても、おかんは謝り続けた。  ご飯は基本焼飯だった。おかんが一番簡単に作れるものだったから。 「昔は私、大学の学食で働いていたんだよ。その焼飯をたくさんの学生に食べさせていたんだから」  と誇った顔で笑っていたが、そこでも謝っていた。 「いつも焼飯でごめんね」と。  帰ってくる時間がいつも遅かったから、手の込んだ料理は作れなかったのだと思う。少しでも早く、お腹を空かしている我が子にご飯を食べさせてやりたいという気持ちが勝っていたのだと思う。 「別に焼飯でも大丈夫だよ。気にしないで」  そんなことを言っても謝っていた。実際焼飯は俺は大好きだったし、毎日のように食卓に並んでいても、何も苦ではなかった。  俺が大きくなって反抗期を迎え、言ってはいけない言葉をぶつけたことがあった。「消えろ」「死ね」「ウザい」この世にある全ての罵詈雑言をぶつけた。  そんな時もおかんは謝っていた。でも、ただ一度だけ言った後に無言になったことを覚えている。喧嘩の中で、一度だけ 「父親の方に引き取られた方が良かった」  と言ったことがあった。もちろん俺はそんなことを本気で思っていなかったが、その時のおかんは目に見えてへこんでいて、泣いていた。今思えば俺は本当に最低なことを言ってしまった。今でもずっと後悔している。そして謝ることが出来なかった俺に 「ごめんね」  と泣いてまた謝った。  中学生ぐらいからになってからは、俺に自由をずっと与えていた。どんなに夜遅く帰っても、特段怒らなかった。 「楽しかった?」  とだけ聞いてきた。  「うん」と答えると、「そっか」と言い、笑ってこっちを見ていた。当時の俺は絶賛反抗期でそんなおかんが気味悪くて仕方がなかった。なんでこの人は怒らないんだろう。とまで思っていたが、大人になってから理解した。  純粋に嬉しかったのだろう。我が子が良い笑顔で帰ってくるんだから。きっとその奥には心配があったと思うが、多分嬉しさが勝っていたのだと思う。  そしてどんなに帰りが遅くとも、食卓の上には必ずご飯が並んでいた。 「ご飯いらない。食べない」  と反抗期の俺は帰ってから何度も言った。  「もっと早く言ってよ。作っちゃったしょ」  と言い、そんな時も怒らなかった。むしろ、俺が本当にお腹を空かせていないか心配をしてた。  「本当にいらないの?」  と何度でも部屋に来て聞いてきた。結局いつも俺が寝るまで、いつでも食べれるように準備をしていた。  結局死ぬまで、俺の反抗期は終わることはなかった。罵詈雑言は常に言い続けていた。だが、父親のところへ行きたいということは、冗談でも言わなくなった。俺が大人になって喧嘩するようになったときに、 「あんたあの時『父親の方に・・』とか言いやがって」  と言ったことがあった。やっぱり気にしてたんだな。一生この人の忘れれない傷を付けてしまったんだなと本当に反省した。結局俺、あの時は本当にごめんと伝えれずに死んでしまったな。  俺が高校卒業して、十八歳の時に一度だけ補導されたことがあった。地元のお祭りで、俺がお酒を飲んでいたところを補導された。当たり前だ、未成年なんだから。 「ごめん。お酒飲んでて補導された」 「へえ、そうなんだ」  しか言わなかった。むしろ笑っていた。  その後に、補導した人からうちに電話がかかってきたが、おかんは電話口に向かって怒っていた。 「そんなんで済むならいちいち電話してこないで結構です」  と言って勝手に電話を切っていた。 「どしたの」 「こいつさ、お子様を家できちんと見てあげてください。とか言ってきたんだよ。そんだけのこと言うためにこいつら補導してんの?電話かけてきてんの?と思ったら、イライラして来てね」  と笑っていた。 「補導した人は間違えていないのに、キレてどうすんの」    と俺も笑って言っていた。  笑いながらも誇らしく思っていた。人としては間違っているのかもしれない。でも、親としては誇らしかった。
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